連絡先教えてもらっていいですかが仕事でしか使われない日常

連絡先教えてもらっていいですかが仕事でしか使われない日常

仕事の顔しか知られていないという現実

「連絡先、教えてもらっていいですか?」という言葉を、最後にプライベートで言われたのはいつだっただろう。そう考えてふと気がついた。ここ数年、その言葉をかけられるのは決まって仕事関係者からだけだ。司法書士という仕事柄、初対面の相手とも名刺交換は多いし、メールやLINEを交わす機会も多い。だが、その先にあるのは案件のやり取りやスケジュール調整であって、飲みに誘われることも、ましてや恋愛に発展することもない。

連絡先が増えるたびに感じる距離感

スマートフォンの連絡先が年々増えているのに、それがちっとも“自分のもの”じゃない気がする。ファイル名のような肩書きがずらりと並ぶアドレス帳。建設会社の担当者、不動産屋の営業、法務局の連絡窓口…。それらはすべて「用があって連絡する人」であって、「用がなくても話したくなる人」ではない。名前の横に並ぶのは会社名で、個性も感情もそこにはない。ただの機能的なやりとりのためのリストに過ぎない。

仕事の用件でしか連絡が来ないLINEの通知

LINEの通知が鳴るたびに、少しだけ期待してしまう。もしかして、と思うけど、開いてみれば「今週中に書類確認お願いします」だとか「決済予定日の変更について」だとか、感情のかけらもない文面。通知に喜びを感じた自分がバカみたいに思えて、すぐにスマホを伏せる。事務所のデスクの上でそんなことを繰り返している自分が、滑稽に見える瞬間もある。

業務連絡の中に紛れた小さな期待と落胆

昔、行政書士の先生から送られてきたLINEに、ちょっとした冗談が書かれていて、それだけでなんだか嬉しかった。たったそれだけのことで、「この人とは少し距離が縮まったかな」と錯覚した。でも、次の連絡はいつも通りの業務内容だけだった。こちらから雑談をふっても、返ってくるのは定型的な返信。それでも、ほんの少しでも“個人”として見てもらえた気がして、未練がましくメッセージ履歴を読み返したりもした。

元野球部だった頃にはあったはずのつながり

高校時代、野球部の仲間とは連絡先を交換するのに理由なんていらなかった。試合後に「また練習のことで連絡するわ」なんて軽く言い合って、それが自然なコミュニケーションだった。あの頃は、勝ち負け以上に“誰と時間を過ごすか”が大事だった気がする。ところが今は、連絡を取る目的が「仕事のため」以外に見つからない。お互いに、仕事という看板を背負わないと会話すら成り立たないような気がしてくる。

あの頃は誰かが連絡をくれた

誕生日には誰かしらから「おめでとう」って連絡が来てたし、風邪で休んだら「大丈夫か?」と気遣いのメッセージが届いた。連絡先が単なる連絡手段じゃなくて、関係そのものの証だった。今では誕生日も誰にも知られていないし、知られていても反応されない。携帯が鳴るのは基本的に業務時間中だけで、それ以外の時間はほぼ沈黙。かつての仲間たちも、今ではすっかり別の生活を送っていて、こちらの番号すら知らないかもしれない。

ユニフォーム姿の自分と今のスーツ姿の自分

野球部時代の自分は、泥だらけでも誰かと笑い合えた。スライディングの跡を誇らしげに見せ合ったこともある。今の自分は、しわのないスーツと清潔感を求められ、ミスのない対応をして、淡々と処理するだけの日々。そこに「人間」としての交流はどれほどあるんだろう。連絡先を聞かれるたび、名刺を渡すたびに、「自分という存在」はどんどん薄まっていく気がする。

「お前、変わったな」と言われてからの時間

ある日、久しぶりに会った元チームメイトに「お前、変わったな」と言われた。冗談っぽく言われたけど、その言葉は思いのほか刺さった。変わったのは当然だ。仕事をして、独立して、責任を背負ってきた。でも、変わったのは「表情」や「関係性」にも及んでいたんだと思う。昔のように、理由もなく連絡が来ることはなくなった。今の自分に連絡をくれる人は、用事がある人だけ。それが大人になるってことなのかもしれないけど、なんだか虚しい。

事務所を出ても司法書士のまま

事務所を出ても、肩書きが自分にまとわりついている気がする。スーパーで出会った知人にも「先生、こんにちは」と言われるたび、プライベートの自分は消えていく。気づけば“私生活”というものが輪郭を失っていた。趣味もなく、誰かと連絡を取る理由もない日曜日。スマホを見ても、誰にも連絡したいと思わないし、連絡が来る気配もない。

人付き合いが名刺交換になった瞬間

気がつけば、人付き合いが「交換」と呼ばれるものばかりになっていた。名刺交換、連絡先交換、情報交換…。でも「想い」や「気持ち」の交換はほとんどない。自分がどんな人間かという話題は出てこず、「どんな仕事をしているか」ばかりを聞かれる。お互いに、効率よく関係を築こうとする現代の空気に、どこか息苦しさを感じる。

独身というステータスに反応されなくなってきた

若い頃は「まだ独身なんですか?」と話のきっかけになったが、今ではそれすらも触れられなくなった。触れちゃいけない話、気まずい話題として処理される。誰かに連絡先を聞かれるようなこともなく、異性と自然に繋がる機会もほとんどない。婚活も気乗りせず、かといって新しい出会いもない。このまま、仕事だけを続けていくんだろうかと、たまに怖くなる。

優しさが伝わらない日々と、愚痴が止まらない夜

優しいと言われることはある。でも、それは「怒らない」「感情を表に出さない」という意味でしかない気がする。本当の意味での理解や共感とは違う。たまに吐き出す愚痴も、誰かに慰めてほしいわけじゃない。ただ、「わかるよ」と言ってくれる誰かがいたら、それで救われるのにと思う。

優しいって、都合のいい言葉なんだろうか

「優しいですよね」と言われたとき、少しだけ虚しくなる。怒らない、否定しない、淡々としている――それが“優しさ”だとしたら、それはただ「扱いやすい人」って意味かもしれない。本当は、自分のこともちゃんと伝えたいし、話を聞いてほしい。でも、言えば重いと思われそうで言えない。その結果、愚痴だけが溜まっていく。

事務員さんとの距離感が唯一の支え

今、唯一「仕事以外の話」ができるのは、事務員さんかもしれない。といっても、深い話はしない。天気の話、ドラマの話、たまに笑うくらい。でも、その何気ないやり取りに救われる日もある。毎日顔を合わせる人がいるというだけで、どこか安心できる。彼女が辞めたら、自分は本当に孤独になる気がして怖い。

愚痴ばかり言ってしまう自分との付き合い方

夜になると、独り言のように愚痴をこぼしてしまう。「なんでこんなに疲れてるんだろう」「誰もわかってくれない」。そんな言葉を口にして、自分で自分に呆れることもある。でも、それでも誰かに聞いてもらいたい気持ちは消えない。人に話す勇気はないけれど、文章にすることで少しだけ整理できる。それが今の自分なりの“発信”かもしれない。

それでも続けていく意味を探して

誰かに求められている、という実感がなくても、誰かの役に立っているという確信がある。司法書士という仕事は、派手ではないけれど、確実に誰かの生活を支えている。連絡先を聞かれるのが仕事のときだけでも、それは信頼されている証かもしれない。そう思うことで、少しだけ救われる。

「また連絡しますね」にこもった希望

「また連絡しますね」――この一言も、ほとんどが仕事の続きの意味。でも、もしかしたらその中にほんの少しでも「また話したい」という気持ちがこもっていたらいいな、と思ってしまう。期待しても仕方ないことだとわかっていても、その希望があるから、今日もまた「はい、よろしくお願いします」と返すことができる。

自分のための連絡がいつか来ると信じたい

スマホが鳴るたびにがっかりする日々だけど、それでもいつか、自分自身を思い出して連絡をくれる人が現れるかもしれない。そんな淡い希望を抱きながら、今日も机に向かう。愚痴をこぼしながらも、誰かの手続きが円滑に終わるように、誠実に仕事を続けていく。自分の名前が“仕事以外”の理由で呼ばれる日を、心のどこかで待ちながら。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。