古びた公証役場の一通の電話
その日、公証役場からの電話は、昼過ぎのうたた寝を見事に断ち切った。ああ、たった5分の仮眠で体力が回復する年齢でもないのに。電話の主は、老齢の公証人。曰く、「少し気になる公正証書がある」とのことだった。
最初はよくある相談かと思ったが、彼の声には妙な震えが混ざっていた。長年の経験で培った直感が、じわじわと背中を冷やしてくる。
午後三時過ぎの沈黙を破るベル
公証役場に到着したのは午後三時。まだ冬の光が窓の外を這っていた。木製のドアを開けると、事務員がこちらをじっと見つめている。目つきが険しい。どうやら、こちらの顔は信用されていないようだ。
机の上には一通の公正証書が置かれていた。表紙は古びているのに、内容の一部は妙に新しい。違和感というより、不協和音。何かが、何かと一致していない。
サトウさんの冷たい目線が突き刺さる
「また怪しい案件持ってきましたね」サトウさんの声は容赦がない。鋭利なナイフのような視線が、こちらの横顔に突き刺さってくる。だが、そこには妙な安心感もある。あの目は、真実しか見ない。
サトウさんが公正証書を読み込みながらつぶやいた。「この署名、筆跡が途中から変わってる気がしますね」
依頼人は無言のまま笑った
翌日、依頼人と名乗る男性が事務所を訪れた。小綺麗なスーツに、無表情な笑み。まるでサザエさんに登場する波平の上司のように、人当たりは良いが中身がまるで見えない。
「この証書の通りに登記していただきたいんです」彼はそう言って、少しだけ顎を引いて笑った。だがその笑顔は、深海魚のように底が見えなかった。
笑顔の裏にある不自然な書類
依頼された証書には、数千万の不動産が、ある高齢女性から彼に遺贈されたことになっていた。が、その女性は一ヶ月前に亡くなったはずだ。にもかかわらず、証書の作成日は一週間前。
つまり、生きているはずのない人間が、公証人の前で意思表示をしたということになる。いや、これは、、、死人が筆を取ったということか?
遺言内容と相続人の関係性
さらに調べてみると、依頼人と故人は血縁関係にない。ただの「近所の知人」だという。しかし登記対象の不動産は、故人の唯一の資産だった。相続人たちは蚊帳の外だ。
「これは、、、遺言の形式を使った乗っ取りです」サトウさんがそう断言した。
公正証書の作成日付に潜む矛盾
公正証書の作成日は、確かに未来の日付だった。だが登記簿にはすでに登記原因として登録されている。通常ではあり得ない処理が、どこかで行われた形跡があった。
「やれやれ、、、こういうのが一番厄介なんだよな」
登記簿の記載と一致しない内容
登記の備考欄をよく見ると、「遺言執行者による手続き」とある。しかし、実在する遺言執行者の名前ではなかった。どうやら、公証人と共謀した者が執行者を偽造したらしい。
証書に書かれた名前と、実際の死亡届に記された執行者が一致していない。明らかな偽造だ。
証書の裏にあった余白の違和感
証書の最後のページ。通常なら押印か署名があるはずの場所が、ぽっかりと空いていた。そして、薄く二重になったようなインクの痕跡。「これ、あとから誰かが書き足してます」
まるでルパン三世が金庫の中に入るときのような静けさと緊張。これは、誰かが鍵の形を知っていた証拠だ。
元野球部の勘が働いた瞬間
「こういうのって、ピッチャーの配球と同じなんだよな」気がつけば口にしていた。打者の裏をかくためには、あえて読ませる球を混ぜる。今回の証書も、あまりに整いすぎていて逆におかしい。
「ミットが動いてる。つまり、狙いが変わってるってことさ」
「これはピッチャーの配球と同じだ」
サトウさんは呆れた顔をした。「その例え、もう少し現代的なものにしてください」でも、俺にはこれが一番しっくりくる。配球は意図を読み解く鍵なのだ。
この証書も、「空白」と「整いすぎた形式」が狙い球だった。
やれやれ、、、あとは俺の出番か
「不動産登記法違反と私文書偽造。これ、警察に突き出すしかないですね」サトウさんが静かに言った。
やれやれ、、、ここから先は、俺の出番だ。
サトウさんの一言が決定打
「ここ、普通なら署名しませんよね」
彼女の指差した場所には、不自然な余白があった。筆圧もバラバラ。しかも拇印が「朱肉」ではなく「赤ペン」だったのだ。
真犯人の意図と署名欄の筆跡
公証人に確認したところ、「書類は間違いなく目の前で署名された」と主張。しかし筆跡鑑定の結果、署名は依頼人のものだった。つまり、自分で自分に財産を遺贈していたことになる。
もはやミステリーというよりブラックコメディだ。
遺言者は本当に生きていたのか
死亡届の出された日と、公正証書の作成日にはズレがある。しかし、それは火葬許可証の日付と一致していた。
つまり、遺言者は「まだ生きていたことになっていた」。生前に亡くなっていたかのように見せかけ、公証人と依頼人が偽装を図った可能性が高い。
目撃証言と火葬許可証の不一致
近隣住民からの証言では、「一週間前にお通夜があった」という。しかし、戸籍上の死亡日はその二日後になっている。死んでから生き返ったことにでもなっている。
「まるでサザエさんのカツオが仮病でずる休みしてるみたいだな」思わず苦笑が漏れた。
書かれていたのは未来の日付だった
公証人の手元に残っていた控えには、訂正跡があり、本来の作成日は「故人が亡くなる前の日」だった。つまり、後から日付をずらして提出された形になる。
意図的に日付を変えたのは誰か。それは、証書に唯一関与できる立場だった人間しかいない。
すべてを知っていた公証人の沈黙
公証人は最後まで口を開かなかった。ただ、「これは正しい手続きでした」とだけ言った。
だが、その目は泳いでいた。沈黙は時に、真実より雄弁だ。
証書が語るのは死者の声か生者の嘘か
この証書が語っていたのは、死者の遺志ではなく、生者の欲望だった。形式を整えれば何でも正当化できると思っていたのだろう。
だが、法律は心を映す鏡でもある。偽りの書面には、かすかなひびが必ず走る。
「形式の整った嘘」は誰のためか
それを見抜くのが、司法書士の仕事だ。誰かが泣き寝入りしないために。誰かが不当に笑わないように。
そして俺は、今日も書類の中の嘘を探す。
シンドウが証明した正義の形
不正登記は未然に防がれ、依頼人は書類送検された。公証人もその責任を問われ、役場を辞した。
法の網は思ったよりも細かく、そして、意外と温かい。いや、ほんの少しだけだが。
登記前に気づかなければ手遅れだった
あの時、少しでも判断が遅れていれば、相続人の権利は奪われていただろう。俺のしつこさも、たまには役に立つもんだ。
サトウさんの顔が一瞬だけ柔らかくなった気がした。「ごくろうさまでした」
サトウさんからの少しだけ柔らかい「ごくろうさま」
それだけで、今週の疲れが少しだけ軽くなる。ほんの少しだけ。
やれやれ、、、また地味な仕事に戻るか。
事件の後で残る書類とコーヒーの匂い
デスクの上には、処分済の書類とコーヒーの空き缶。窓の外では、相変わらず鳩が電線で眠っている。
また明日も、誰かの正義を守るために書類と格闘することになるのだろう。
古い証書と古いカップに染みついた記憶
証書も、コーヒーカップも、使い込まれるほどに味が出る。だが、味のある嘘はいらない。必要なのは、淡白な真実だけだ。
俺の仕事は、それを拾い上げること。そういうことにしておこう。
やれやれ、、、まだ終わっちゃいない
今度は、認知症の父を巡る成年後見人トラブルの相談か。やれやれ、、、この町に平穏が訪れる日は遠そうだ。