誰とも話さなかったことに気づいた夕方
夕方、ふとコーヒーを淹れようとして「あれ、今日…声出してないな」と気づく瞬間がある。依頼の電話もなく、外出もなく、ただパソコンに向かい書類を整えるだけの一日。司法書士という仕事柄、集中すればするほど誰とも話さずに済んでしまう日がある。以前はそんな静寂に満足していたが、最近は少し胸がざわつく。何かを忘れてしまったような、何か大切なものを置き去りにしているような。声を出さないというのは、ただの現象じゃなく、心にじんわりと染み込んでくる孤独の兆しかもしれない。
言葉を使わない一日はやけに静かだ
司法書士の仕事は、とにかく黙々と進める場面が多い。今日のように来客がなければ、パソコンのキーボードの打鍵音だけが響いている。無音ではないのに、妙に静かだと感じるのは、自分の声が混じっていないからかもしれない。事務所には事務員さんが一人いるが、忙しそうにしている彼女に声をかけるのもためらわれる。かといって「世間話でも」と思っても、話題が出てこない。高校時代は野球部で「声出せ!」と怒鳴られていた日々が懐かしい。今ではその“声出し”が、こんなにも難しい。
音はしているのに、自分の声がない
FAXの送信音、プリンターの動作音、事務員さんのペンの音。それらは確かに「音」だ。でも、それらには感情が乗っていない。自分の声には、たとえひとりごとでも、ちょっとした体温がある。「はい、了解です」そうつぶやくだけでも、なんだか存在が肯定される気がする。けれど今日は、それすらもなかった。
ふとした沈黙に感情が揺れる
窓の外で鳥が鳴いていた。ふだん気にも留めない音に、今日はなぜか心が反応する。「あ、誰かが生きてる」そんな実感が湧く。でもそのあと、自分が無口なままここにいる事実が、逆に重くのしかかる。静けさが好きなはずなのに、今日は違う。まるで、何か大切なやり取りを忘れてしまったような気分だった。
事務所にひとり、タイピングの音だけが響く
朝から登記簿とにらめっこし、依頼者との電話もなく、法務局へも行かない。そんな日が定期的にある。仕事が進むこと自体はいいことだ。でも、誰とも話さないまま一日が終わると、何か大切なパーツを落としたような気になる。声というのは、発することで「今日もここにいる」と証明しているようなものかもしれない。
忙しいのに、心は暇になる不思議
書類作成に追われて、頭はずっと動いているのに、なぜか「心だけが暇」になる。感情を交わす場が一切ないと、いくらタスクをこなしても充実感が残らない。成果があっても、それを誰かと分かち合わないと“点”で終わってしまう。喋ることって、感情の回路をつなぐ行為だったんだと痛感する。
誰かと会話することで保たれるもの
会話って、ただの情報交換じゃない。心の位置を確かめ合う作業だと思う。自分の考えがどこにあるのか、他人とぶつかって初めて見えてくる。今日はその確認作業がなかったから、なんとなく浮遊している気分。仕事は順調なのに、心が地面についていないような、不思議な浮遊感に包まれている。
無言のままこなす業務の味気なさ
たとえば料理だって、誰かに「おいしい」と言われることで満足する。仕事もきっと同じ。感謝の言葉が欲しいというより、「伝える」「返す」というやり取りが、仕事の一部なんだと思う。黙って成果を出すことに慣れてしまった自分が、少しこわくなった。
モニターに映るのは、依頼じゃなくて自分の顔
Zoomも電話もない日、ふとブラック画面に反射した自分の顔と目が合う。顔色が悪い。こんなに無表情だったかと驚く。画面の中の自分が、どこか他人のようだった。「ああ、今日は誰とも会話してないから顔筋も動いてないな」そんな小さなことに気づくのも、ひとりきりの証だ。
リモート化が進むほど独りになる
業務効率は上がった。書類の郵送も少なくなり、ほとんどがデータで済む。でも、それと引き換えに何かが減った気がする。司法書士の仕事は「人と関わる」ことが本質なのに、その接点がどんどん画面越しになっている。便利だけど、つながっていない。そんな感覚がじわじわ増えている。
便利の代償は、会話の喪失だった
リモートは時短になる。確かに助かる。けれど、ちょっとした雑談や、対面の呼吸のようなやりとりは、画面越しでは生まれない。今日一日、誰とも目を合わせなかった。笑い合わなかった。効率と引き換えに、会話という“潤滑油”が抜け落ちた。
「話しかけられなかった」ではなく「話しかけなかった」
一日を終えてふと「誰も話しかけてこなかった」と思った。でもその瞬間、自分もまた誰にも話しかけなかったことに気づく。コミュニケーションの責任を人に押し付けていた。司法書士という肩書きが、自分を「孤立しても仕方ない存在」にしてしまっていたのかもしれない。
受け身でいる限り、孤独は続く
誰かが話しかけてくれるのを待つだけでは、永遠に孤独から抜け出せない。勇気を出して「お疲れさま」と一声かけるだけで、その日が少し違う色になるのに。人付き合いが苦手なわけじゃない。ただ、億劫になる。歳を重ねるほどに。
元野球部でも、声出しはもうしていない
高校のグラウンドでは毎日「声出せ!」「もっと声を!」と怒鳴られていた。あのころの自分は、声を出すことで仲間とつながっていた。今はどうだ。誰にも「声出せ」と言われない代わりに、誰ともつながれずにいる。
挨拶ひとつが重たく感じる日もある
「おはようございます」が言えなかった日がある。なぜか喉が詰まって、言葉が出ない。そんな日は、一日中、気分が落ちたままだった。言葉って、心の起動スイッチなのかもしれない。
喋らない日があっても、また話せる日がくる
今日はたまたま会話がなかっただけ。明日は誰かが来て、また言葉を交わせるかもしれない。そう思うだけで、少し救われる気がした。声が出なかった日も、また声を出せばいいだけだ。司法書士の仕事も、人生も、言葉とともに続いていく。