依頼人は煤けたスーツの男
朝のコーヒーも飲みかけのまま、ドアが乱暴に開いた。入ってきたのは、焦げたような匂いをまとった中年の男だった。スーツは煤で汚れ、左手には黒く焼け焦げた封筒を握っていた。
「これ……燃えたけど、大事なもんなんです。どうにか……なりませんか」
書類を開くと、確かに権利書らしきものがあった。だが文字の多くは黒く潰れて判別不能だった。
朝一番に現れた無精髭の依頼
依頼人の話によると、夜中に実家が全焼したらしい。火の手は早く、家も書類も一緒に燃えた。唯一持ち出せたのが、この封筒だったという。火事は不審火だが、警察は放火の証拠を掴めていないようだった。
「権利書って、焼けたら、もう終わりなんですか?」男の声はかすれていた。
私は頷きそうになるのをこらえた。いや、終わりとは限らない。だが厄介だ。
焼け跡と灰色の封筒
「やれやれ、、、」私は思わず独り言を漏らした。封筒の表には『重要』と赤字で書かれていたが、既にほとんど読めなかった。中身を取り出すと、奇跡的に一部の登記事項証明書が辛うじて判読できる状態だった。
そして、そこには見覚えのある地番が載っていた。
それは数年前、私が別の相続で取り扱った場所と同じだった。
サトウさんの塩対応が冴え渡る
「火事の相談なら司法書士より消防にどうぞ」サトウさんが無表情で言い放った。彼女は私の事務所の事務員で、何よりも冷静かつ正確だ。私がうっかりしやすいのを完全に理解しており、基本的にフォローしない。
「でもこれ、保存登記の話よね?紙が燃えても、法務局は燃えないの」
彼女の言葉に私は頷いた。そう、原本還付で提出されたはずの書類の一部が、法務局に保管されている可能性がある。
それでも依頼は引き受けてしまう男
私は結局、依頼を受けることにした。あの男の目が気になったのだ。まるで何かを訴えるような、あるいは何かを隠すような、二重の感情が渦巻いていた。
「昔、ルパン三世が手に入れた絵が実は偽物で、本物は燃やされてたって話あったな……」
私はそう呟きながら、焦げた文字の中から糸口を探し始めた。
焼けた書類の正体
登記簿謄本を法務局で取り寄せると、件の土地は現在、依頼人の父親名義になっていた。登記は昭和時代のもので、その後の変更は一切なかった。
問題は、依頼人の兄がすでに土地の売却話を進めているということだった。つまり、権利の所在が宙に浮いていたのだ。
もし権利書が燃えていたら、兄の主張を覆す手段がない可能性があった。
権利書は偽物か 本物か
私はふと思い出した。数年前の依頼人も、同じ土地の相続で揉めていた。当時の登記は、ある司法書士が処理していたはずだ。その人物に連絡を取ると、当時の原本控えがまだファイルで残っているとのことだった。
そこには、依頼人の父親の実印とともに、依頼人自身の名前も記載されていた。
それが意味するのはただ一つ。既に贈与がされていた可能性だ。
手がかりは登記簿の備考欄
通常は見落とされがちな「備考欄」。そこに、小さく「贈与予約契約につき留保条件付」とあった。私は慌てて依頼人に確認した。
「あの、贈与契約書って、どこかに……」
「あっ、それも一緒に燃えました」
名義変更の空白が示す意味
ならば、次に見るべきは印鑑だった。印鑑届はどうなっていたか。法務局で調べると、父親の印鑑は廃印になっており、直近で別の印鑑に変更されていた。
変更の申請者は依頼人の兄だった。そしてその印鑑は、今回の焼けた契約書に押されていたものとは異なっていた。
つまり、焼けた書類は父親が本当に作成したものであり、兄が持っている権利証は後から偽造された可能性があった。
鍵を握るのは亡き父の印鑑
家は燃えても、印鑑の登録情報は消えない。私は印影を複写し、鑑定の専門家に送った。結果は「一致」。父のものと断定された。
つまり、依頼人が持っていた焼けた書類こそが、本物の権利証だったのだ。
そして、法的には十分にその効力を証明できる材料も揃っていた。
実印は燃えても印影は残る
火に包まれた家で、命がけで持ち出した封筒。その中には、唯一の真実が残っていた。私はその事実を、兄に突きつける準備を整えた。
「あの兄貴、昔から自分が一番だと思ってるやつで……」依頼人は笑っていたが、目には涙が浮かんでいた。
対峙する二人の兄弟
法務局での立会いの場。兄は当然のように書類を出したが、それは偽造と判断された。サトウさんが冷静に言い放つ。
「印影、ずれてます。これ、コピーでしょ」
兄の顔色が変わった。次の瞬間、沈黙が場を支配した。
遺産か復讐かそれとも何か
兄が言った。「あいつばっかり親父に気に入られて……。だから全部燃やしてやろうと思った」
「でもな、あの書類だけは持ち出されたんだ。やっぱりアイツはいつも最後に勝つ」
その言葉は、嫉妬と悔しさに満ちていた。
やれやれ 記載ミスも役に立つ
私の手元には、数年前の記載ミスがあった登記の控えが残っていた。それは今回の件において、逆に「連続性」を証明する大きな助けになった。
「やれやれ、、、また昔の失敗に救われたか」私は肩をすくめて苦笑した。
サトウさんは無表情で一言。「失敗は記録しておくものです」
思わぬところで役立つ元野球部の肩
裁判所への提出書類を提出するタイミングで、自転車で急いで駆け込んだ。思わず滑って転びそうになったが、かつての野球部仕込みの肩で投げた封筒が無事にカウンターに届いた。
「ナイス送球ですね」とサトウさんが一言だけ褒めてくれた。ほんの少しだけだが。
最後の一押しはサトウさんの一言
「地番は踊らない 書く人が踊るのよ」
サトウさんの言葉は、登記簿の誤記を見抜いた決め手だった。結局、書類を偽造した兄は罪に問われ、土地は依頼人のもとに戻った。
私はただ、記録を整理しながらその台詞を何度も反芻した。
冷静な事務員が導く結末
私は司法書士として表に立ったが、実質的に事件を解いたのは彼女だったと思う。私が野球部だったことより、サトウさんが優秀だったことの方が、今回の勝因だったのだ。
そんなことは口が裂けても言わないが。
事件の終わりと司法書士の憂鬱
依頼人は土地を守ったが、家は戻らなかった。私は手続きを終えて、一人、事務所で冷めたコーヒーを飲み干す。
またいつか、こんなややこしい依頼が舞い込むのだろう。
それでも私は、今日もまた書類の山に向き合う。静かな戦場で、ただ一人。
燃えたのは書類だけではなかった
人の心も、家族の記憶も、時には炎に包まれる。
けれど、紙の中には真実が宿る。そう信じたい。
「やれやれ、、、次の依頼はもっと穏やかなものであってほしいね」