朝の来客と一通の遺言書
その日も事務所には古い蛍光灯の音だけが鳴っていた。朝一番の来客は、黒いコートにサングラスという、いかにも何か隠していそうな中年男性だった。名乗ったのは「ナカジマ」とだけ。
彼は封筒を差し出し、机の上にそっと置いた。「これ、遺言書です。登記の相談を」とだけ言い、視線は一度も私の目を見なかった。
見知らぬ依頼人の名はナカジマ
ナカジマと名乗る男には、どこか既視感があった。だが、名刺も出さず、電話番号すら書かれていない。「ちょっと怪しいですね」とサトウさんがつぶやいたが、私はうなずくしかなかった。
遺言書は公正証書遺言ではなく、自筆証書だった。封もされておらず、あまりにも雑な扱いに違和感を覚えた。
封筒に挟まれた一枚の印鑑証明書
遺言書と一緒に出てきたのは、故人の印鑑証明書だった。だが、その印影を見た瞬間、私とサトウさんは顔を見合わせた。なぜか、その印影が笑っているように見えたのだ。
印影の角度が微妙に傾き、まるでニタリと口元を歪めているように見えた。「これは、、、“笑って”ますね」と、サトウさんが皮肉気に呟いた。
遺産分割協議書の不自然な点
書類一式を精査すると、そこに綴られた協議書には妙な違和感があった。内容は簡潔にまとまっているのだが、日付の空白が不自然すぎた。
「書かれている相続人の中に、亡くなったはずの人がいる」とサトウさんが指摘する。慌てて戸籍を確認すると、確かにその人物は数年前に他界していた。
サトウさんの冷静な指摘
「これ、遺産分割の前提が成り立っていませんね。死人は協議に参加できませんから」と、冷ややかに書類を置くサトウさん。さすがはうちの名参謀、いつもながら抜け目がない。
やれやれ、、、また妙な案件に巻き込まれた気がする。私の中で、サザエさんの波平がため息をつく声が響いた。
印影が笑っているように見える
「この印鑑証明、本当に本物ですかね」とサトウさん。私は虫眼鏡を取り出し、印影の線の流れを辿る。微妙にずれているのだ、通常よりもわずかに。
「悪いけど、これ偽造の可能性が高い」と私はつぶやいた。印鑑が笑っているように見えたのは、偽者ゆえの歪みだったのだ。
故人の生前と相続人の証言
ナカジマが残した住所を頼りに、故人の近所の喫茶店を訪ねると、マスターが苦笑いしながら語った。「あの人の兄弟、仲悪かったからなあ。家売るって話がいつも揉めててさ。」
どうやら遺産を巡る火種はずいぶん前からあったようだ。
町内の古参喫茶店での聞き込み
「死んだ兄貴のことを、弟さんは“疫病神”って言ってたくらいだよ」と、店の常連が言った。証言は生々しく、争族の匂いがプンプンした。
この辺りの住民が、遺言の存在すら知らなかったことも、さらに怪しさを助長する結果となった。
兄弟の不仲と家の売却話
「もともとあの家、売るはずだったんですよ。兄貴が反対して話が流れたって聞いてます」
不仲だった兄弟が遺言で仲良く分け合うだろうか? 協議書に記されたその姿は、理想的すぎて逆に不自然だった。
登記簿の閉鎖と空白の一年
私は閉鎖登記簿を取得した。古いデータの中に、意外な空白の一年があった。登記の動きがなかった期間だ。
「この一年、何があったんだ?」と私は独り言のように呟いた。
「シンドウ」のうっかりと復活の登記事項証明書
「先生、それ、住所間違ってますよ」とサトウさんに言われ、またしても私は赤面した。うっかり旧町名で取得していたのだ。
改めて取得し直すと、そこには贈与登記が記録されていた。しかも、それを申請したのは……ナカジマ。
閉鎖簿から滲む過去の争い
争いの痕跡は、登記の中に刻まれていた。贈与、抹消、差押え、そして和解調書——まるで推理漫画のトリック集のようだった。
私は何気なくページをめくりながら、ルパン三世の銭形警部のように呟いた。「とんでもないヤツが相続に絡んでやがる、、、」
謎を解く鍵は印鑑の向き
印鑑証明の角度が決定的だった。通常、縦書きの証明には、真っ直ぐに押印される。だが、それは右に3度傾いていた。
これが意味するのは、“スキャンされた印影”を合成したことによるズレ。つまり、印鑑証明は偽物だ。
笑う印鑑証明は本物か偽物か
「証明書を偽造してまで登記を操作しようとする理由は一つ」と私は言った。「遺産の中に、“土地以外の何か”があったんでしょうね」
サトウさんが目を細めた。「例えば……骨董とか、隠し口座とか?」 私は黙ってうなずいた。
筆跡鑑定をしない司法書士の直感
筆跡鑑定のような派手なことは我々司法書士はやらない。ただ、書類を見て、何かがおかしいと感じたら、それは直感ではなく“職業的嗅覚”だ。
私はそっとファイルを閉じた。「これは警察に回そう」
依頼人ナカジマの素性
調べれば調べるほど、ナカジマという名義の裏に、別の名前が浮かび上がる。数年前、贈与登記で揉めた別件で関わった人物と一致した。
「あいつ、まだ懲りてなかったのか」と、私はため息をつくしかなかった。
偽名と別名義の口座
判明したのは、名義貸しされた預金口座。そこに、遺産と思しき大金が流れ込んでいた。
「土地は囮、本命はこっちだったんですね」と、サトウさんが言った。
過去に別件で関わった遺言執行の記録
私は自分の記録をめくった。確かに、あの時の登記案件で、「ナカジマ」という名がちらついていた。今思えば、あれが最初の接点だったのだ。
やはり、因果はめぐる。しかも、忘れたころに。
夜の事務所と盗まれた書類
その夜、事務所に泥棒が入った。狙われたのは書類棚。鍵は壊され、ナカジマのファイルだけがなくなっていた。
「防犯カメラ、役に立つかも」と私は思い、確認を始めた。
防犯カメラに映った影
映っていたのは、黒いパーカーの男。だが、カメラの角度が悪く、顔は見えなかった。とはいえ、その歩き方、仕草、すべてがナカジマを彷彿とさせた。
「証拠は薄いけど、状況証拠はそろいましたね」と、サトウさん。
机の引き出しに残された紙くず
唯一の証拠は、引き出しの中に残された紙くず。そこには、ナカジマの筆跡で「偽造、完了」と書かれていた。私は静かにコピーをとり、警察へ提出した。
後は司法の番だ。
逆転の発想とサトウの推理
「結局、遺産って何だったんですか?」とサトウさんが聞いた。
「遺産は、“人の信頼”だよ。騙されたふりをして、実は全部見抜いていたのさ」なんて言ってみたいが、実際は違った。
真正な印鑑証明はどこにある
本物の印鑑証明は、故人の貸金庫にあった。亡くなる前に、信頼できる行政書士に預けられていたのだ。
「完全に読まれてましたね、ナカジマさん」と私はつぶやいた。
遺産は土地ではなかった
遺産は土地ではなかった。貸金庫に入っていたのは、小さな宝石と1通の手紙だった。「この家を守ってくれてありがとう。遺すものは心です」と。
それを見たとき、ナカジマはどんな顔をしただろうか。
最後の面談と暴かれる真相
警察に呼び出されたナカジマは、最後までしらを切った。しかし証拠は積み重なっていた。
「この印鑑証明、君の自作だろう?」と突きつけられ、ようやく観念したらしい。
笑ったのは印鑑ではなくナカジマだった
笑っていたのは印鑑ではなかった。最初に笑っていたのは、すべてを手に入れたと信じていたナカジマの顔だった。
だが最後に笑ったのは——司法書士の私だった。
やれやれ、、、また面倒な書類仕事だ
事件が片付いたあと、山積みになった訂正登記の準備を前に私はつぶやいた。「やれやれ、、、また面倒な書類仕事だ」
サトウさんは横で、ため息をつきながらアイスコーヒーを一口。
後日談と猫とサザエさん
事件のことはすぐに地元紙に載り、ちょっとした話題になった。だがそれも束の間、日常は静かに戻った。
駅前で拾った猫が事務所に住みつき、毎朝サトウさんにスリスリしている。私はというと、その猫にも避けられている。
法務局の廊下で思い出したこと
法務局でふと見かけた廊下のポスターが、サザエさんのパロディだった。「登記は正しく!」と波平が怒鳴っていた。
ああ、また一つ勉強になった。私は帽子を直し、また歩き出した。
サトウの冷たいアイスコーヒーと一言
事務所に戻ると、机の上に冷たいアイスコーヒーとメモがあった。「次の案件、ファイルは揃えてあります」
塩対応だけど、ちゃんと気を利かせてくれるサトウさんに感謝しつつ、私はまた書類に向き合うのだった。