謄本の余白に潜む影
この仕事をしていると、日常の中にごく自然に潜む「違和感」に気づく瞬間がある。いや、正確にはそれに気づくのは大抵サトウさんで、僕はあとからうなずくだけなのだけれど。
あの日も、いつものように眠気を引きずりながら、事務所のポストに投げ込まれていた依頼書を手に取った。差出人の名前に見覚えはなかったが、相続登記のようだった。
朝の司法書士事務所に届いた謎の依頼
「おはようございます。ポストに入ってました」と僕が書類を振ると、サトウさんは手を止めずに一瞥して返事をした。「また無言依頼ですか。郵送でなくポスト投函ってのが妙ですね」
封筒の中には、遺産分割協議書、印鑑証明、そして固定資産評価証明書がきっちり揃っていた。だが、何かが「整いすぎている」とでも言うべきか、不気味なほど違和感がない。
相続登記かと思いきや遺産は空き家一軒
登記対象は地方の古い一軒家だった。どうやら亡くなった老婦人の相続で、相続人は甥と姪の二人。資産価値はほぼゼロ、むしろ処分に困る類の物件だ。
「この家だけですか?」と僕がつぶやくと、サトウさんが頷いた。「財産目録にはそれしか載ってません。だけど……名義変更が妙に急いでますね。亡くなってまだ一か月です」
調査を始めたサトウさんの冷静な違和感
サトウさんは何かを掴んだようで、黙ってパソコンを操作している。キーボードを打つ指先が早くなると、彼女の思考が加速している合図だ。
「ちょっと登記情報サービスで過去の履歴、見てみましょうか。念のため」と彼女は言った。「この家、過去に仮登記がついていた可能性があります。抹消された記録があるんです」
登記簿に記された二つの申請日
その家には、十年前に設定された根抵当権があった。貸主は都内の金融会社。しかし妙なのは、それが数年前に一度抹消され、さらにもう一度似たような名義で設定されていたことだった。
「同一人物が抵当権者として再登場してるの、怪しくありませんか? 別会社に見えて実は同系列とか」
古い謄本と現在の謄本の微妙な相違
紙の謄本とオンライン登記簿を突き合わせてみたサトウさんが小さく声を漏らした。「これ……訂正された筆跡の部分、過去と比べて若干形が違います。誰かが訂正申請をした形跡がありますね」
それはまるで、写し直されたコミックスの吹き出しにわずかな修正があるような、そんな違和感だった。文字のかすれ、線の太さ、字体の揺らぎ——プロの目には不自然な改ざんに見えた。
隠された仮登記と抹消の履歴
問題の家には、かつて兄妹間での貸し借りをめぐるトラブルがあり、仮登記で抑えられていた記録があった。それが綺麗に抹消されていたが、抹消の申請人の印鑑証明には不審な点があった。
「この印鑑証明……発行日が亡くなった方の死亡後なんです。どういうことでしょうか」
相続人の一人が突然姿を消した
甥の所在が不明になった。連絡が取れない。彼が最後に確認されたのは、相続協議の印を押した日だった。その翌日には行方不明届が出されていた。
「行方不明者が協議書に署名押印って、タイミングが出来過ぎてますよね」とサトウさん。
調停申し立て直前の不可解な電話
「申立書を出す前に一度だけ確認したいことがあります」と言ってきたのは姪のほうだった。電話口の彼女の声は震えていた。「私、兄の署名を……本当にしたか分からないんです」
聞けば、協議書は親戚の司法書士に頼んで作ってもらったとのこと。だがその事務所の存在を検索しても出てこない。登録番号も偽造されていた。
法務局で耳にした意外な一言
法務局で提出書類の確認をしていた時、窓口のベテラン職員がポツリと漏らした。「あれ? この仮登記、どこかで見た気がするな……違う物件だったか……」
過去に似た事件があり、その際も仮登記が消された後に所有権移転が行われていたという。しかも、その時の登記申請人と今回の抵当権者が一致していた。
やれやれ、、、またかと僕は頭をかいた
一連の状況から浮かび上がるのは、あるパターンだった。仮登記を一度抹消し、その後に偽造した協議書で名義を移転、最後に転売して現金化する——いわば登記のトリックアート。
「やれやれ、、、またこんな地味で面倒な罠とはね。サトウさん、君がいなかったら気づけなかったよ」
過去の登記記録に隠された筆跡の謎
筆跡鑑定を警察に依頼したところ、甥の署名は第三者による代筆だったと判明。しかも、代筆した人物はかつて名義貸しで行政処分を受けた司法書士だった。
その者はすでに業務禁止処分を受けていたが、裏社会とつながりを持ち、偽名で書類を代行していたという。
暗闇から浮かび上がる名義書換の真相
結果的に、名義移転は無効とされ、姪も加担していなかったと判断された。事件は詐欺未遂として立件されたが、甥はいまだに見つかっていない。
僕たちの手元に残ったのは、訂正印が押された謄本のコピーと、半分だけ使われた印紙だった。
司法書士としての最後のひと押し
「司法書士って、地味だけど、嘘を記録に残させない最後の砦ですよね」とサトウさんが言った。
僕は少し照れながら頷く。やれやれ、これだからこの仕事はやめられないんだ。