封筒が届いた朝
差出人ナシの奇妙な郵便
事務所に届いた茶封筒には、宛名シールが乱暴に貼られ、消印の場所も不自然だった。差出人の記載はどこにもない。こんな封筒は大体ロクなことがないと、経験が教えている。
「なんか呪われてそうですね」そう言いながらサトウさんが封を切った。中からは、便箋一枚と印鑑証明書のコピーが出てきた。事務所の空気が、少しだけきしんだ気がした。
中身は一通の手紙と印鑑証明書
手紙には、「兄の遺産は放棄します。理由は聞かないでください。」とだけ、達筆で書かれていた。日付も署名もない。ただし同封されていた印鑑証明書が、記載内容の真実味を補強していた。
「これ、誰宛なんですかね」僕が聞くと、サトウさんは小さく首をかしげた。「たぶん、あの“高橋さん”の分ですね。先週お亡くなりになった…」
相続放棄の相談人
沈んだ顔の中年女性
翌日、封筒に心当たりがあるという女性が訪ねてきた。高橋信吾氏の妹を名乗るその人は、静かな声で語りはじめた。兄とは疎遠だったが、遺産は一切受け取らないと事務的に告げた。
僕は淡々と相続放棄の手続きの説明を始めたが、どこかひっかかるものが胸に残った。女性は終始うつむき、書類にも目を通すふりだけをしていた。
「兄の遺産は要りません」
「兄のことは、もう昔の人ですから」彼女はそう言った。だが言葉に微かな震えがあった。僕は経験上、こういうときは深く突っ込まない方がいいと学んでいる。
だが、サトウさんは違った。「この印鑑証明、先週の発行なんですよね。お兄さんが亡くなった日と同じ日です。」そう言って彼女はコピーを指差した。
サトウさんの違和感
妙な家系図のズレ
相続関係説明図を作成していると、妙な点に気づいた。兄妹二人きりのはずが、古い戸籍には養子縁組の記載があった。被相続人が養子を迎えていた可能性がある。
「これ、書き換えられてますね」とサトウさんは即答した。日付の並びが変だった。まるで、何かを隠そうとしていたかのように。
封筒の折り方が語る真実
封筒の折り目が左右非対称だったことにも、サトウさんは注目していた。「これ、手紙を差し替えた可能性があります。たぶん最初の内容と違う。」そう呟いて、彼女はそっと書類棚を指差した。
言われてみれば、押印の位置も不自然だった。僕は急に胸がざわついた。これまでの案件とは、少し違う気配がした。
戸籍調査の落とし穴
旧姓の痕跡と隠された養子縁組
役所から取り寄せた除籍謄本には、見知らぬ名前があった。「山田花子」という名前が、一時期だけ「高橋」の姓を名乗っていたことが分かった。
その人物は、現在別姓で暮らしているが、戸籍には「養女」と明記されていた。つまり、法的には彼女も相続人だ。だが彼女の名前は、相談に来た女性の話には出てこなかった。
遺言書が見つからない理由
通常、このような関係性がある場合は遺言が存在することが多い。しかし高橋氏の遺品からは、遺言書らしきものは何一つ出てこなかった。デスクも本棚も、すでに綺麗に整理されていたという。
「遺言書があったとしても、誰かが処分したんでしょうね」サトウさんの目が冷たく光った。まるで怪盗キッドがトリックを見破る瞬間のようだった。
倉庫にあった第二の封筒
シュレッダーを逃れた封書
高橋氏の会社が使っていた古い倉庫から、偶然もう一通の封筒が見つかった。開封されておらず、表に「花子へ」とだけ手書きで記されていた。
僕の背筋が少しだけ伸びた。これは証拠になるかもしれない。しかし、中を開ける前に、管財人への確認が必要だった。
筆跡は同じだが内容が違う
結局、開封は許可され、手紙の中身は「遺産のすべてを花子に譲る」と記されていた。兄妹の女性が提出してきた封筒とは、文面が明らかに違う。
筆跡鑑定の結果、どちらも被相続人本人のもの。だが、前者は後に書かれた“改ざんされた遺言”だったと判明した。
やれやれの推理タイム
相続放棄の裏にあるもう一つの意思
結局、妹は全てを知ったうえで、放棄したのだろう。兄の遺志を尊重し、花子へ渡るよう細工した。印鑑証明書も手紙も、彼女の役割を終えていた。
「やれやれ、、、こんなやり方もあるのか」僕は苦笑いを浮かべた。法の外側で行われた、静かな遺産分配だった。
兄は誰に何を託したのか
高橋氏が本当に望んでいたのは、血縁ではなく、かつて娘のように育てた養女への想いだった。その最後の願いを、実妹が静かに叶えたのだ。
証拠は残さず、記憶だけがそこにあった。だが、それで良いのだろう。
真実の開示
手紙に込められた遺言
封筒にあった手紙には、こう記されていた。「一度も父とは呼ばれなかったけれど、私は父のつもりでいたよ。」その一文が、すべてを語っていた。
遺産とは、財産だけではない。思い出や後悔、そして想いの行方もまた、遺されるのだ。
受け取るべきだった人の名前
結局、花子さんは受け取りを拒否した。だが、彼女の表情には後悔の色はなかった。「あの人の気持ちが知れただけで、もう充分です」そう言って、彼女は深く頭を下げた。
誰も損をせず、誰も得をしなかった。ただ一つの封筒が、すべてをつないだのだった。
サトウさんの一言
「これ書き直しておいてください」
手続きがすべて終わったあと、サトウさんがボソリと漏らした。「申述書の雛形、ちょっと古かったですよ。今の様式に合わせたほうがいいです。」
……最後のツメの甘さを指摘されるのも、もう慣れてしまった。僕は静かにうなずいた。
それでも彼女は塩対応
「ま、今日はまあまあだったんじゃないですか?」と言って、サトウさんはさっさと自分の机に戻った。労いの言葉も、優しい笑顔もない。いつもの塩対応。
だけど、不思議とそれがちょうどいい。僕は、少しだけ机に頬杖をついた。
そして封筒は処分された
遺されたものと忘れられるもの
その後、封筒と手紙は正式に無効とされ、依頼人の了承のもと処分された。記録には残らず、心の片隅にだけ留まった。
時折、あの手紙の文字を思い出す。だけど、あれはもう過去のものだ。法は未来を見るためにある。
仕事に戻る午後
晴れた空と未完の登記簿
窓の外は晴れていた。少しだけ風が吹き、書類がめくれた。机の上には未完の登記簿。午後の予定はまだびっしりだ。
「さて、次は会社の合併登記か、、、」やれやれ、、、今日も僕の司法書士人生は続く。