静かな朝の依頼人
サインひとつの相談
朝の事務所には、いつものようにファイルの山と、コーヒーの香りだけが満ちていた。そこへ現れたのは、柔らかなワンピースに身を包んだ女性。年の頃は三十半ば、どこか憂いを帯びた瞳だった。 「贈与契約書を作りたいんです」──彼女は開口一番にそう言った。相続ではなく、生前贈与。しかも受贈者は、すでに別れた元夫だという。
違和感のある依頼書
依頼内容を確認しながら、僕はふと手元のサインに目をやった。達筆だが、どこか機械的な印象。押印もなく、日付も空欄。なのに彼女はこれで提出したいと言い張る。 「これ、筆跡おかしくない?」と、いつの間にか背後に立っていたサトウさんが口を開いた。まるでキャッツアイの泪姉さんみたいに、冷静に、正確に、核心を突く。
過去に縛られた贈与契約
遺言ではなく愛の証明
「彼に感謝を伝えたくて……遺言では重たすぎるし、生きてるうちにサインを渡したいの」──依頼人は、少しだけ笑った。だがその笑顔の裏に、僕は何かしらの切なさを感じた。 「その気持ちはわかる」と僕は言った。「でも、法的にはいろいろ問題もありますよ。たとえば、この署名……」
彼女の語る過去の彼
元夫はかつて事業に失敗し、彼女が支えていたという。愛も信頼も崩れ、やがて別居、そして離婚。それでも彼女は「どこかで彼を許したかった」とつぶやいた。 「サザエさんのマスオさんみたいに、最後まで穏やかに笑っていられたら良かったんですけどね」と言う彼女の横顔が、やけに印象に残った。
署名に潜む嘘の香り
筆跡と感情のズレ
サインは確かに“彼のもの”に似ていた。ただ、サトウさんは言った。「昔の手紙の筆跡と比べると、微妙に違うんですよね」 司法書士の職務に「愛を測る」は含まれないが、「偽造の兆しを見抜く」は範囲内だ。
サトウさんの冷たい推理
「これは、誰かが“元夫のふり”をして書いたサインです。多分、彼女自身か、あるいは……」と、サトウさんは書類の余白を指差した。そこには微かに震えた跡。緊張か、それとも罪悪感か。 「つまり、自作自演……?」と僕が呟くと、サトウさんはため息交じりに頷いた。
依頼人の影ともう一人の男
元夫のアリバイ
僕らは念のため、元夫にコンタクトを取った。現在は他県で飲食店を経営しており、ここ数ヶ月は戻ってきていないとのこと。彼の声は穏やかで、依頼人の話にも驚いていた。 「僕は何も聞いてませんよ。彼女、まだ僕のことを……?」
第三の署名者の存在
そしてもう一つの可能性が浮かび上がった。彼女が通っていたカリグラフィー教室の講師。美しい筆跡を持つその男が、依頼人に密かに想いを寄せていたことが判明した。 「愛を成就させるための偽名……彼はロマンチストすぎたのかもな」と僕は苦笑した。
嘘と優しさと
恋か偽りか
彼女は涙ながらに告白した。「嘘はつきました。でも、それは愛からだったんです。彼に、最後の感謝を届けたかった」 司法書士としては、手続きを止めざるを得なかった。けれど、人としては……なんとも言えない。
贈与契約の裏にあるもの
契約書は破棄されたが、彼女の想いは届いた。元夫が手紙を送り返してきた。「ありがとう。君のおかげで今がある」とだけ書かれた、優しい言葉と共に。 法では裁けない、だが確かに存在する“思いの証明”がそこにあった。
真実のサイン
法的に無効な優しさ
「結局、無効な契約にしかならなかったな……」と僕は独り言のようにつぶやいた。だけど、心のどこかでは、これで良かったとも思っていた。 やれやれ、、、人の心を文章化するなんて、難しすぎる。
最後に残された手紙
彼女が帰り際に残した小さな封筒。中には、僕宛の一筆が入っていた。「先生がいてくれてよかった。ありがとう」──たったそれだけの手紙。 でも、僕にはそれが妙に胸に残った。
やれやれ、、、愛の行方も一筋縄じゃない
サインは語らずとも
愛は時に文字より雄弁だ。サインが全てを語るとは限らない。むしろ、サインできない想いのほうが、重く、深いのかもしれない。 事務所に戻ると、サトウさんがひとこと。「結局、先生も少しは役に立つんですね」
誰かのためのうそだった
冷蔵庫のプリンを取ろうとしたら「それ、私のです」とサトウさん。 やれやれ、、、今日もまた、勝てない日が続く。