焼肉は好きだけどひとりで行けないという話を誰にもできないまま四十五歳になった

焼肉は好きだけどひとりで行けないという話を誰にもできないまま四十五歳になった

ひとり焼肉ができない理由を自分なりに考えてみた

ひとり焼肉。それは決して難しい行為じゃないはずだ。店に入って、肉を注文して、焼いて食べる。ただそれだけのことなのに、どうしても踏み出せない。何度も何度も、店の前までは行く。でも結局、「今日は混んでそうだな」なんて理由をつけて引き返す。その後ろ姿は、たぶん哀愁すら漂っている。誰にも言えないこの気持ち。自分でも理由がよく分からないのだから、他人に説明できるはずもない。

店に入るまでの心理的ハードルが高すぎる

焼肉屋の入り口に立つと、まず自動ドアがやけに立派に見える。開けた先に広がる店内、あのざわつき、満席のテーブル席、その中で自分が「ひとりです」と言う勇気がない。別に誰も気にしちゃいないだろうけど、こちらは気になってしょうがない。あの一歩がどうしても重い。自分は地元で司法書士をしていて、ちょっとだけ名前が知られているのもあって、余計に「見られてるんじゃないか」と思ってしまう。

「ひとりですか」と聞かれるあの瞬間が怖い

「何名様ですか?」と聞かれる、その瞬間がとにかくしんどい。「ひとりです」と答える自分の声がやけに小さくなる。相手が一瞬「え?」と聞き返してくると、もう心が折れそうになる。内心「なんでそんなに驚くんだ」と思いながらも、実際は驚かれてすらいないのかもしれない。自意識が過剰なだけなのに、どうしてもその場にいるだけで自分が異物のように感じてしまう。

カウンター席に案内されても気まずさが勝る

ようやく通されたカウンター席。周囲を見渡すと、カップル、家族、友人同士。誰かとしゃべりながら楽しそうに焼いている。そんな中、自分は黙って肉を焼く。ジュージューという音すら、まるで「哀れだな」と響いてくる気がする。そういう空気に勝てない。肉が美味しくても、気まずさが心にまとわりついて、食べ終えたあとは「疲れた」という感想しか残らなかったこともあった。

焼肉は好きなのに心がついてこない

肉そのものは大好きだ。カルビ、タン、ハラミ、どれも魅力的で、焼肉という食べ物に罪はない。むしろ、週に一回でも通いたいくらいだ。でも、ひとりで行くとなると、焼肉の魅力を素直に受け取れなくなる。心が味に追いつかない。いくらうまい肉でも、周囲の視線が気になって仕方がないと、舌は麻痺する。「自分はどう見られているのか」が先に立ってしまうのだ。

においが染みても誰も咎めないのに

ひとり焼肉でよく言われるのが「においが気にならないから気楽」という声だ。確かにそれはある。誰に遠慮するでもなく、にんにくも食べられる。服ににおいがついても、誰にも咎められない。だけど問題はそこじゃない。においよりも、「あの人ひとりで来てるんだ」と思われることのほうが、よっぽど気になる。これはもう、自意識過剰の極みかもしれないが、それでも気になるのだから仕方がない。

食べたい部位だけ食べられるという幸せ

ひとり焼肉の良さのひとつに、食べたい部位だけ頼めるというのがある。カルビが続いてもいいし、タンばかりでもいい。誰かと一緒だと遠慮して頼まない部位も、ひとりなら好き放題だ。それは確かに魅力的で、試してみたい。でも、実際に行こうとすると、そのメリットすらかすんでしまう。自由に頼める代わりに、自由に孤独がやってくる。そんなトレードオフが待っている気がする。

それでもひとりじゃ味が薄く感じてしまう

味は確かに美味しいはずなのに、ひとりで食べると不思議と味が薄い。気のせいだとは思う。でも、誰かと「これうまいな!」と共感しながら食べる焼肉と、ひとりで「うん…まあうまい…」と心の中でつぶやく焼肉では、やっぱり違う。舌じゃなくて心で味わっているのかもしれない。そう思うと、やっぱりひとりで行くのが惜しくなる。

ひとり焼肉に行ける人への嫉妬と尊敬

SNSではよく見る。「ひとり焼肉最高」「気楽すぎてハマった」そういう投稿を見ては、「すごいなあ」と思う。尊敬と嫉妬が入り混じった感情。自分もああなれたらいいのに、と何度も思った。でもどうしても勇気が出ない。たぶん、ひとりで行ける人は、焼肉が好きなんじゃなくて、「自分を許せる人」なんだと思う。そうなりたい気持ちはあるのに、まだ自分には無理だ。

勇気ではなく習慣なのかもしれない

結局、勇気なんて大げさな言葉を使っているうちは無理なんじゃないか、とも思う。慣れた人にとっては、ひとり焼肉は「ただの昼ごはん」みたいなものだ。つまり、日常に溶け込んでいるかどうかの差。勇気というより、回数の問題なのかもしれない。そう考えると、初めの一歩さえ超えられれば、後はきっと気にならなくなる。だけど、その一歩がとにかく重い。

「慣れたら平気」は本当なのか

誰かが「慣れたら平気になる」と言っていた。たしかに、それは何にでも言えることかもしれない。最初は怖かった運転も、独立したての相談対応も、気づけば普通にこなしている。ならば、ひとり焼肉も慣れれば平気になるはずだ。でもそのためには、最初の一回をやらなきゃいけない。それができたら苦労はしないんだよ、という話なのだ。

司法書士という職業柄常に誰かに見られている気がする

仕事柄、地域の人との距離が近い。だからこそ余計に「誰かに見られてるんじゃないか」と思ってしまう。実際には誰も見ていない。わかっている。だけど、スーパーで出会った依頼人に「先生、昨日あの焼肉屋にいましたね」なんて言われたらと思うと、やっぱり怖いのだ。自由に動けるはずの自営業が、妙に狭く感じるのはこのせいかもしれない。

名前を出せば地元で知られてしまう苦しさ

名前で検索されることもある。Googleのレビューもつく。顔も、事務所も、場所も、すべてがさらけ出されている。その状況で「ひとり焼肉してるところ」を目撃されるのは、なんとなく恥ずかしい。そう思う自分が一番不自由だとわかっていても、どうしても解き放てない。地元密着の仕事には、こうした「人の目との戦い」もあるのだ。

自由に見えて意外と不自由なこの仕事

独立して、自分で時間を決められると思っていた。でも、実際には時間も場所も行動も、誰かの視線や期待に縛られている。自由なようでいて、自由じゃない。昼休みに焼肉屋に入ることさえ、自分にはまだできないのが現実だ。そんな日々に、ふと「何のために独立したんだろう」と思うこともある。いやになるね、ほんと。

勇気は出ないけど諦めたくもない

それでも、ひとり焼肉へのあこがれはある。「食べたい」「行きたい」という気持ちはちゃんとある。だから、諦めたくはない。別に人生が劇的に変わるわけじゃないけれど、「やってみたい」と思ったことをやれたという事実は、きっと小さな自信になる。司法書士である前に、人間として、もっと自分を自由にしてやりたい。

小さなステップを積むという作戦

一気に焼肉屋へ突撃するのは無理でも、段階を踏めばいけるかもしれない。たとえば最初は焼肉定食の店。次に焼肉屋のランチタイム。さらに夜のカウンター。そうやって、少しずつ慣らしていけばいい。法律の仕事と同じで、準備がすべて。無理をしない、自分なりの段取りを大事にしたい。

まずは焼肉定食から始めてみる

ということで、先日は思い切って「焼肉定食の店」に行ってみた。結果は…意外と大丈夫だった。目立たない店だったのがよかったのかもしれないし、「定食屋」という雰囲気が気楽だったのかもしれない。でも、終わったあとは、なんとなく「やったぞ」という気分になった。大げさだけど、自分にとっては大きな一歩だった。

店選びの基準は「一人客が多いかどうか」

今後の作戦として、「ひとり客が多い店」を探すのが大事だと感じた。ネットの口コミでも、「一人でも入りやすい」と書いてあると安心する。実際に行ってみると、自分以外にも一人客がいて、なんだか少しだけ勇気が出る。一人焼肉に行ける人になりたいという目標、ゆっくりでも進めばいい。そう思えるようになってきた。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。