朝の電話と不在者財産管理の依頼
午前8時半。コーヒーの香りも落ち着かぬうちに、一本の電話が事務所の空気を変えた。行政書士からの紹介で、不在者財産管理人の選任を検討しているという。
依頼人は遠方に住む弟で、兄が十年以上行方不明になっており、その兄名義の土地をどうにか処理したいのだという。
「やれやれ、、、また面倒なパターンか」と思いつつ、サトウさんがメモを取りながら僕をチラリと睨んだ。
謎の申立書と空欄の欄外
役所から送られてきた資料には、見慣れた申立書の様式があった。だが、欄外に付されたメモ書きに違和感が残る。
「確認済」と朱書きされているが、印鑑がどこにも見当たらない。提出者の名前もフルネームではなかった。
なにかが変だ。事務的で整った体裁に、逆に不自然な意図を感じた。
依頼人はどこにいる
兄は平成二十年を最後に音信不通になっている。戸籍の附票にも移動記録はなく、所在確認のための書面もすべて返戻扱いだった。
弟は「兄は死んでいると思う」と語ったが、あくまで不在者としての手続にとどめている。
生死を曖昧にすることで、何かを保留しているような、そんな印象を受けた。
兄弟の証言が食い違う理由
会話を重ねるうち、弟の証言に矛盾が出始めた。兄が使っていたという部屋の様子を尋ねると、場所や物の配置が説明と食い違っていた。
「それ、本当に見たんですか?」サトウさんの一言が、空気を刺した。
弟は少し沈黙し、「いや、母から聞いた話かも」と言い直した。
不動産の名義と放置された空き家
対象物件は、駅から離れた郊外にある平屋の木造住宅だった。門扉には錆が浮き、庭の草は伸び放題だった。
僕は懐中電灯片手に敷地を見て回った。残置物らしきものもあるが、生活感は感じられない。
それでも、どこか不気味な静けさがあった。
ひび割れた表札と開かないポスト
玄関脇の表札は、名字がかすれて判別が難しい状態だった。ポストは封鎖され、中には未開封の郵便物がぎっしり詰まっていた。
中の一通に目を通すと、差出人は建築会社。宛名はなんと「弟」の名前だった。
つまり、弟はこの物件に何らかの関与を持っていた可能性がある。
印鑑証明書の矛盾
後日提出された印鑑証明書の写しを見て、サトウさんが首をかしげた。「これ、、、交付日が未来です」
確かに、交付日は一週間先の日付になっていた。出し間違いか、あるいは、、、
急いで市役所に確認を取ると、その証明書はまだ発行されていないことが判明した。
日付だけが未来を指している
弟が提出した書類一式を精査すると、他にも不自然な点が見つかった。住民票の移動日も、実際の提出日よりも後になっている。
何かを先回りして準備していた形跡がある。つまり、計画的に事を進めていた。
これは単なる手続ではなく、意図的な偽装の可能性がある。
通帳と共に消えた家財道具
地元の清掃業者に聞き込みをすると、二か月前にこの家の家財道具一式を回収したという証言が得られた。
依頼人の名前は伏せられていたが、支払いには兄名義の口座が使われたとのこと。
行方不明のはずの兄の口座が、なぜ今も動いているのか。
リフォーム工事の請求書に隠された名義
請求書の写しを業者が見せてくれた。よく見ると、注文者の署名欄には「○○不動産管理」とあった。
この法人は、弟が役員を務めている会社だった。登記簿で調べると、最近設立されたばかり。
弟は自分の法人を通じて、兄の不在を利用して不動産を実質的に管理しようとしていたのだ。
サトウさんの冷静な指摘
「先生、これ、委任状の筆跡、他と違いますよ」サトウさんは比較表まで作って持ってきた。
たしかに、本人の自筆署名とされる部分は、ほかの書類とまるで別人の字だった。
僕はため息をついて背もたれに寄りかかった。「やれやれ、、、どうしてこうなる」
その委任状は筆跡が違う
裁判所に筆跡鑑定を依頼しようかと思案していたところ、偶然にも別の司法書士から「似た案件」の話が飛び込んできた。
なんと、同じような不在者申立が複数件、弟の会社を通じて出されていたのだ。
この段階で、弟は不在者制度を悪用して財産管理をコントロールする企図を持っていたことがほぼ確定した。
役所の記録と郵便の転送
兄宛の郵便はすべて弟が転送設定していた。旧姓で出されたものすら届いていた形跡がある。
役所に事情を話すと、「本来は本人の申請が必要なんですが、、、」と渋い表情。
つまり、不正な転送届が受理されてしまっていた。
転送届にある旧姓と新しい住民票
さらに調査すると、兄の住民票が一時的に別の自治体へ移動されていた記録があった。
しかも、その移動先には、すでに弟の関係先が所在していた。
これは偶然ではない。計画的に情報を操作していた証拠だ。
手続き済のはずの登記が完了していない理由
登記簿上は、まだ名義は兄のままだった。だが、申請済みのはずの登記が、何かの不備で保留扱いになっていた。
「印鑑が違うって言われたらしいです」と法務局の担当者が教えてくれた。
弟が提出した印鑑は、実は兄のものではなかったのだ。
登記申請書にある見慣れない印鑑
現物を確認すると、確かに彫りが甘く、銀行印とは異なる。市販の既製品のようだった。
弟は印鑑登録の偽造も視野に入れていた可能性がある。すでに刑事案件に足を踏み入れていた。
僕は依頼を打ち切る決意をした。
真犯人の動機とその過去
弟の動機は単純だった。兄の死を確信していながら、死亡届を出すと相続人が増える。それを嫌ったのだ。
不在者として兄を固定し、自らが財産管理人になることで、実質的な相続を独占しようとした。
だが、法は見逃さなかった。
遺産の行方よりも兄弟の因縁が深かった
後に判明したが、兄は生きていた。山奥の診療所で療養中だった。なぜ連絡しなかったのかは、本人の口からは語られなかった。
「兄貴には、会わせる顔がなかったんでしょう」サトウさんが呟いた。
事件の深さは、登記簿だけでは測れなかった。
静かに閉じる登記簿の一ページ
法務局からの連絡で、登記申請は正式に却下されたことを確認した。
僕は書類を整理しながら、ひとつため息をついた。サザエさんなら「お兄ちゃんどこ行ってたのよー」と一喝で済んだ話かもしれない。
だが現実は、もっと複雑で、もっと静かだった。
書類に残るのは事実か虚構か
偽造された印鑑、転送された郵便、曖昧な記憶と計画的な不在者利用。法の隙を突こうとした男の軌跡が、いま記録としてだけ残っている。
僕はファイルを閉じた。「やれやれ、、、やっぱり現場は甘くないな」
夕方、サトウさんが湯呑みに新しいお茶を注いでくれた。それだけで少し救われた気がした。