登記申請のはずが不穏な気配
元妻が持ち込んだ売買契約書
その日の朝、事務所のドアが静かに開いた。女の人がひとり、封筒を抱えて入ってきた。目元にはかすかな疲れがあり、でもどこか確信めいた強さがあった。彼女は、「この売買契約書で登記をお願いしたいんです」と言った。
封筒の中には売買契約書と印鑑証明が数枚。名義人の名前は聞き覚えのあるものだった。ああ、そういえばこの名前——元夫だと彼女は言った。
住所欄に見慣れぬ筆跡
書類をめくる手を止めたのは、住所欄の筆跡だった。署名と住所欄の文字が明らかに違う。ボールペンの色も微妙に違う。些細な違和感。だが、こういうのに限って、あとあと爆弾になる。
「ご本人が全部書かれたものですか?」と尋ねると、女性は少し言葉を濁した。「ええ、ええ、もちろん。彼が全部……書きました」
消えた印鑑証明と謎の一文
「原本と相違ありません」の文字
添付されていた印鑑証明書はたしかに有効期限内。しかし、そのコピーの裏に「原本と相違ありません」という一文があった。赤いスタンプも押されている。
その文言、私が見る限り——偽物によくある決まり文句だった。正規の手続きで作成された文書には、通常そんな文句は要らない。
サトウさんの冷ややかな推察
私の表情を察したのか、サトウさんがコーヒーを出しながらぼそり。「これ、たぶん本人が書いてないですね。契約書も、印影、少し潰れてますし」
思わずコーヒーを噴き出しかけた。「見た瞬間にわかったのかい?」と聞くと、「ええ。あの人、絶対左利きです」と。いつの間にそんな観察を?
元夫の行方を追って
連絡が取れない理由
記載されていた電話番号にかけてみる。プープーという機械音。どうやら解約済み。メールも返ってこない。住所へ送った通知も戻ってきた。
やれやれ、、、またか。行方の知れぬ関係者に翻弄されるのは、もう何件目だろう。司法書士ってのは、探偵でも便利屋でもないはずなんだが。
郵便物の返送と転居先
転送届も出ていないようで、郵便局にも行ってみた。すると、近所のおばさんが「そういえば最近、見慣れない女の人が夜にうろついてたよ」と言った。
まるでサザエさんの波平さんが近所のうわさを嗅ぎ回ってるような雰囲気。こういう地域の情報網は侮れない。
元夫が契約に同意していなかった可能性
委任状の矛盾点
提出された委任状の中に、日付と印影が一致していないものがあった。特に不自然だったのは、本人直筆であるはずの署名の下に「委任内容の範囲については別紙参照」とメモ書きが添えてあったこと。
この「別紙」が見当たらない。そもそも別紙なんて存在していないのでは? そんな疑念が頭をよぎる。
サザエさん似の隣人の証言
郵便受けを覗く謎の女
現地調査に出向くと、近所の年配女性が声をかけてきた。「ちょっとアンタ、こないだの女の人、また来てたわよ」
聞けば、元夫宅の郵便受けを何度も覗いていたという。姿かたちは、まるでカツオを叱るフネさんのようだった。風情はないが、証言は確かだ。
昔の男と消えた認印
その女性、どうやら依頼者の妹だった可能性があるらしい。兄を心配して、姉の行動を制止していたのだとか。
認印は妹の部屋で見つかった。どうやら姉が勝手に持ち出したようだ。つまり、契約そのものが成り立っていない。
元夫の意外な出現場所
市役所前での偶然の再会
調査の帰り道、市役所の前でふと肩がぶつかった。振り返ると、例の元夫本人だった。「あ、もしかして司法書士さん?」
思わず声が裏返った。まさかこんな偶然があるとは。昔の探偵アニメなら、絶対エンディング直前の展開だ。
元夫の言い分と真実
彼の話によれば、契約書には一切サインしていないとのこと。元妻が無断で書類を作成し、勝手に売却を進めていた。
「僕、印鑑も失くしたんです。そしたら変な人が家に来て…」 すべてがつながった。
売買契約の真相
偽造された日付と印影
契約書の日付と印鑑証明書の発行日が合っていない。しかも印鑑の押し方も通常と違い、印面の中心がズレていた。
これは間違いなく、偽造されたものだった。依頼人に確認を取ると、彼女は観念したように黙り込んだ。
依頼人の目的は離婚後の復讐?
「彼に逃げられたんです。だからせめて、家だけでも……」 元妻のつぶやきには恨みと寂しさが滲んでいた。
気持ちは分かる。だが、法を曲げてはいけない。私たちは、法の下でしか動けない。
サトウさんの容赦ない一言
「で、虚偽登記ほう助になる覚悟は?」
サトウさんが静かに告げる。「先生、受任しちゃってますけど、これ完全にアウトですよ」
冷たい目に刺されながら私はうなだれた。「やれやれ、、、胃がキリキリしてきたよ」
私の胃に優しくない週明け
月曜日の午前中にこれだ。胃薬を探す手も震える。まだ週の始まりだというのに、このありさま。
司法書士ってのは、つくづく割に合わない仕事だ。
解決への一手
法務局への確認電話
すぐに法務局に連絡し、提出予定だった書類の件を相談した。「このまま進めば、虚偽登記の可能性があります」と伝えると、担当官も即座に反応した。
その後、依頼人に正式に受任辞退の連絡を入れ、すべての資料を返却した。
もう一度売主に会わせてください
「彼に直接話してくれませんか」と懇願されたが、それはできない。私は探偵じゃないし、ましてや恋愛カウンセラーでもない。
少し疲れた顔で断ると、彼女は静かに頭を下げ、事務所を後にした。
終わった事件と残された書類
結局、依頼は取り下げに
書類はすべて処分した。記憶の中にだけ残すことにした。そう、これもまた、司法書士としての日常の一部なのだ。
「虚偽登記防止」という肩書きの裏には、人間模様のドロドロがつきまとう。誰も褒めてはくれないが、誰かが止めなければならない。
茶を入れる音だけが事務所に響いた
サトウさんが無言で湯のみを差し出す。湯気が静かに立ち上がる音が、午後の事務所に広がった。
「これ、胃に効きますから」 たしかに彼女は無愛想だが、そこに込められた優しさには、時々救われる。