不自然な依頼
その日、事務所にふらりと現れた男は、喪服のまま分厚い封筒を差し出してきた。表書きには「遺言書在中」と、やや震えた筆跡で書かれていた。無表情なまま、彼は「空き家の相続登記をお願いしたい」と言った。
封筒を開けてみると、公正証書遺言が収められていた。被相続人の名義は、どこかで見たことのあるものだったが、思い出せない。相続人は彼一人だけ。違和感はあったが、形式上は問題がなかった。
空き家の所有権移転登記
登記簿を取り寄せてみると、確かに対象の土地建物は被相続人名義だった。ただし、最終的な所有者変更は15年前。相続登記がされていないこともあり、書類上は男の言う通りの筋が通っていた。
しかし、家の写真を見ると、窓ガラスは割れ、郵便受けはチラシであふれていた。周辺の環境を見ても、誰かが頻繁に出入りしていたとは考えにくい。こんな物件を急いで登記しようとするのは妙だった。
持参された遺言書の違和感
遺言の内容自体に矛盾はない。ただ、被相続人の筆跡とされる署名の線がやけに震えており、不自然な箇所があった。まるで、誰かが本人の筆跡を真似たかのような印象を受けた。
公正証書遺言であれば、公証人の確認が入っているはずだ。しかし、その日付の担当公証人はすでに退官していたことが、後に判明する。あの署名が、偽造された可能性を強く感じた。
亡き被相続人の素顔
近所の不動産業者に連絡を取ると、「あの家はもう何年も誰も住んでないですよ」と、あっさり返ってきた。被相続人についても、「一人暮らしの無口な爺さんだったけど、五年前に亡くなったと聞いた」とのことだった。
だが、戸籍上では、今年の春まで生存していたことになっていた。これはどういうことか。司法書士としての勘が働いた。これは「書類だけが生きている」状態の典型ではないか。
近所の証言と人物像
古い付き合いの町内会長に話を聞くと、「そういや、あの家の息子さんってのが何年か前に戻ってきて、遺産のことで揉めてたらしい」と証言した。話が妙にリアルで、噂話では済まされない空気を感じた。
その「息子」は今回の依頼人と一致するのだろうか。だとすれば、やはりすべてが仕組まれている可能性が高い。誰が本当の相続人なのか、何が本当なのか——霧は深まるばかりだった。
司法書士の疑念
どうにも腑に落ちない。登記簿の中にある記録が、彼の話と一致しないのだ。とくに、過去の所有者の移転理由が「贈与」となっていたのが奇妙だった。家族間での贈与とはいえ、時期的にズレている。
「やれやれ、、、」と、俺はつぶやいた。これは、ただの登記では終わらなそうだ。漫画でいえば、第一話の中盤あたり。名探偵が鼻を鳴らす場面である。
登記簿の過去の変遷
紙の原本を取り寄せて気づいた。14年前、被相続人が一度だけ別人に所有権を移転していた形跡があった。しかし、それは1年足らずで戻されている。しかも、その期間中の登記原因は「錯誤」。
つまり、一度誤って名義を移したことになっている。しかし、それが事実かどうか、今となってはわからない。謎が謎を呼ぶとは、まさにこのことだった。
書類に残された癖のある署名
さらに注意してみると、複数の登記申請書の署名に共通する「癖」が見つかった。アルファベットの「S」が独特の丸まり方をしている。これは筆跡鑑定でも個人識別に使える特徴だ。
今回持ち込まれた遺言書の署名にも、その「S」があった。だが、それは依頼人が記入した別の資料にもそっくりだった。つまり、彼が偽造した可能性が濃厚となった。
サトウさんの冷静な指摘
「この件、全部あなたが一人で調べるんですか? まあ、無理でしょうけど」と、例によって塩対応なサトウさんが言う。だが、彼女は黙って机に一枚の紙を差し出してきた。
それは、被相続人の登記識別情報通知のコピー。どうやら、前回の相続手続で誤って別の物件の分も送付されていたらしい。そこには、本来の相続人の名前が記されていた。
登記識別情報の真贋
調べてみると、依頼人が持っていた識別情報は偽造だった。フォントが微妙に違い、QRコードも偽物だった。そこまで精巧に作られていても、サトウさんの目はごまかせなかった。
それが決め手となり、依頼人には警察が動き始めた。事務所に再度訪れることはなかったが、後日、詐欺未遂で逮捕されたとの連絡を受けた。
相続人リストの矛盾
戸籍をさらに深堀すると、被相続人には娘がいたことが判明した。しかも、成年後見制度を利用して施設に入所中。彼女が正当な相続人であるにもかかわらず、まったく記載されていなかった。
依頼人はそれを隠すため、戸籍謄本の一部を切り貼りし、虚偽の相続関係説明図を作っていたことも発覚した。まさに、漫画のような手口だが、それでも現実だった。
元野球部の勘が働く
「そういえば」と、俺は思い出した。あの依頼人、初めて来たときの名刺に「T商事」と書いてあった。これは、5年前のとある事件で聞いた会社名と一致する。
その事件は、不動産詐欺で逮捕者が出たが、実行犯は別人だった。だが、その背後にいた名義屋の一人が逃げていた。そして、今回の依頼人の顔写真が、それと一致した。
名前に隠されたヒント
彼の苗字には、「戸籍」や「書類」を連想させるような字が使われていた。偽名だったのかもしれないが、それが逆に油断につながった。世の中には、名探偵でなくとも気づく者もいるのだ。
推理漫画でよくある「決め手は日常の些細なこと」パターン。それに倣うなら、今回もまさにそれだった。名前、署名、字体、そして違和感。それらがすべてを解決に導いた。
真相への手がかり
事件の核心は、被相続人が数年前に死亡していたにもかかわらず、書類上は生存しているように偽装されていた点にあった。これは登記実務では極めて悪質な手口だ。
依頼人は、過去の登記記録を洗い直すことでバレるとは思っていなかったのだろう。しかし、俺は登記の流れを見ることで「何かがおかしい」と感じた。それが、この仕事の勘というものだ。
昔の登記にあった別人の痕跡
さらに昔の登記簿を確認すると、依頼人と同じ住所で申請された登記がもう一件あった。これは偶然か? いや、違う。住所ロンダリングの可能性が高かった。
そこから芋づる式に、同一人物による複数の偽装相続登記が浮上した。警察は組織的犯行として、他の司法書士にも協力を仰ぐこととなった。
司法書士間で共有される噂
俺の耳にも、あの依頼人に関する過去の話が届き始めていた。「あいつ、一度だけ◯◯法務局に顔出してたぞ」とか「別の登記も怪しい」とか。正義感強めな若手司法書士たちがざわめいていた。
そう、まるで少年探偵団のように。地味な司法書士の世界にも、熱血と推理が交差する瞬間があるのだ。あの江戸川コナンも、きっと苦笑いするような展開だった。
告発とその代償
最終的に、俺の報告書が証拠の一部として採用された。依頼人は公文書偽造および詐欺未遂で逮捕。裁判でも有罪となり、実刑判決が下された。
だが、これで全てが終わったわけではない。世の中には、もっと巧妙に隠された偽装登記がまだ眠っている。俺たち司法書士が立ち向かうべき相手は、紙の中に潜む闇だ。
警察とのやりとり
警察からは「よく見抜きましたね」と言われたが、俺は苦笑いするしかなかった。「まあ、怪しいと思っただけですよ。経験則ってやつです」と答えた。
だがその裏には、眠れぬ夜と、サトウさんの鋭い指摘があったことを、彼らは知らない。俺一人の手柄じゃないことくらい、俺が一番よく知っている。
依頼人の裏の顔
その後、依頼人の過去が少しずつ明らかになった。複数の名義で活動していたこと、偽名を使っていたこと、そして、登記を狙った犯罪の常習者だったこと。
まるで、サザエさんに登場する「波平のそっくりさん」のように、同じ顔で別人格を演じていたのだろう。だが現実は、笑って済ませられるほど甘くはない。
事件の結末
事件は解決した。だが、事務所の空気はどこか重たかった。俺はようやく深いため息をついて、椅子に身を沈めた。「やれやれ、、、」と小声でつぶやいた。
すると、向かいの机から塩対応が飛んできた。「やっと終わりましたか。今日の分の登記、まだ残ってますよ」——現実はいつだって、漫画よりも厳しい。
見抜いた虚構の契約
だがそれでも、誰かの嘘を暴くことで守られる権利がある。俺たちの仕事は地味だが、確かに意味がある。今回のような事件こそ、その証明だった。
帰り際、サトウさんがふとつぶやいた。「たまには、普通の相続案件が来てほしいですね」——うん、それが一番の願いだ。もう、やれやれだよ。