朝起きて気づけば夜そんな日々が続く
朝、目覚ましの音で起きてから、次に意識がはっきりするのはもう夜。そんな感覚が増えてきた。開業して10年以上経った今、業務に追われる毎日が当たり前になってしまったのかもしれない。書類を整え、法務局に行き、戻ってきたらもう夕方。気づけば郵便物が机に山積みで、それを開封しながら次の準備。事務員の子が気を利かせて「先生、今日はご飯食べました?」なんて言ってくれるのが唯一の「気づき」だったりもする。
いつから「終わらせる」ことだけが目的になったのか
開業当初は、一つひとつの案件に達成感があった。「この登記はやりがいがあるな」と思えた時期も確かにあった。けれど、今はただの「処理業務」。どうにか終わらせて、次の依頼に取り掛かる。その繰り返し。依頼人とのやりとりも、笑顔よりも確認事項が優先されてしまう。人との関係すらも“効率化”してしまっているような、自分自身への違和感を覚える。
業務の量と質に追われる日常
最近では、質の高い仕事をしようとすればするほど、時間が足りない。だからといって手を抜くわけにはいかない。相談者にとっては、こちらの1件が人生を左右する重大案件なわけで。だけどその“重さ”を、同時進行の10件以上に注ぎ込むのは現実的に難しい。自分の中での葛藤が日々積もっていくのを感じる。
一件終わるたびに心の中で「はい次」
一件完了すると、達成感よりも、「やっと終わったか」という安堵が先に来る。そして、すぐに「次は…」とスケジュール帳に視線を移す。それが習慣になってしまった。少し前は、「一件入魂」なんて言っていた自分が、今ではその言葉を聞いても少し鼻で笑ってしまうような、そんな余裕のない精神状態になっている。
忙しさは充実とは限らないという事実
「忙しい=充実している」なんて、若い頃は信じていた。でも実際には、忙しさが続くと、自分の感情すら感じられなくなる。目の前の業務に集中することがすべてになって、楽しいとか嬉しいとか、そういう感情がどこかに置き去りにされている。日々がどんどん「味気ない時間」へと変わっていくのを感じている。
時間が流れるスピードが加速した理由
スマホの通知、事務所への電話、郵送で届く大量の書類。あらゆるものが「急かしてくる」。だからこそ、自分もそれに応えるようにスピードを上げるしかない。そして、そのスピード感が当たり前になってしまう。気づけば一週間が終わり、月が変わり、年が過ぎている。自分の中で「今どき何月?」と考える瞬間が増えた。
スケジュールに感情が置き去りにされる
スケジュール帳はびっしり。空き時間はトイレに行く時間くらい。それでも一件キャンセルが出たら、思わずホッとしてしまう。「あ、今日は少し息ができるかも」と。それくらい、毎日の予定に詰め込まれている。感情がないわけじゃない、感じる余裕がないだけなんだと思う。
振り返る余裕がないままの月末
月末になると、請求書の整理や書類のチェック、報告書の作成など、月初以上に雑務が増える。そんな中で、「今月何をやったっけ?」と振り返ろうとしても、もう記憶が薄れている。時間は過ぎたが、記憶には残らない。これは「働いた」というより「ただ時間を消費した」に近い感覚だ。
昼休みがただの移動時間になった
昔は昼休みが楽しみだった。街の食堂で定食を食べて、ちょっとコーヒーでも飲んで…そんな時間もあった。でも今は、法務局と金融機関を回る合間が“昼休み”。運転しながらおにぎりを頬張って、次の目的地へ急ぐ。そんな自分をふとガラスに映った姿で見て、思わずため息をついたことがある。
コンビニで買うおにぎりがご褒美だった日
ある日、事務員がコンビニで新作のおにぎりを買ってきてくれた。「これ、美味しいって評判らしいですよ」って。それだけで嬉しかった。こんな些細なことでも、「気にしてくれてる」と感じられるだけで救われる。逆に言えば、それくらいしか“楽しみ”がない日常だということでもある。
「座って食べる」ことのありがたみ
まともに座って食べたのはいつだろう。忙しいと、昼食も夕食も「隙間時間」に詰め込まれる。ラーメン屋に入る時間すら惜しくなって、コンビニのイートインが贅沢に思える日もある。ふとした瞬間に「食べる」ことが“作業”になってることに気づいて、なんだか切なくなった。
電話に急かされる昼休みの現実
ようやく座れて、口におにぎりを運んだ瞬間にスマホが鳴る。「あ、あの登記の件ですが…」そんなことが何度あっただろう。結局、電話が終わる頃には食欲もどこかへ消えていた。誰が悪いわけでもない。けれど、「あの5分だけでも自分のものにできたら」と思ってしまうのは、贅沢なんだろうか。
人生設計が業務に吸い込まれていく
30代の頃、「そのうち結婚するだろう」と思ってた。でも気づけば45歳、独身。司法書士としてのキャリアは積んだつもりだけど、人生の“分岐点”はいつの間にか通り過ぎてしまった気がする。年賀状のやり取りも減ってきて、友人の結婚報告すら届かなくなった。
気づけば独身気づけば四十代
仕事をしていると、年齢なんて関係ないと思っていた。でも実際は、四十を越えたあたりから「このままでいいのか」と自問することが増えた。婚活アプリに登録しても、時間が合わずにフェードアウトばかり。予定が詰まっているというのは、実は“誰にも会わない言い訳”なのかもしれない。
「そのうち結婚」なんて未来はもう来ない
親に「早く孫の顔を」と言われていた時期もあった。でも今は、そんな言葉さえもう言われない。おそらく「諦められてる」のだと思う。仕事に没頭しているというより、現実逃避している部分もあるのかもしれない。ふと鏡を見たとき、「この生活を誰かと共有できるのか?」と自分に問いかける。
趣味も友人も「あとで」になってしまった
草野球に誘われても「今度行く」とだけ返す。飲み会も「仕事が片付いたら」と断る。そんな“あとで”の連続で、気づけば誰からも誘われなくなった。自分が望んだ結果ではないのに、そうなってしまった。仕事のために犠牲にしたはずのものが、本当は一番大事だったのかもしれない。
元野球部の俺がキャッチボールする相手もいない
昔はキャッチボールがしたくて、グローブを持ち歩いてた時期もあった。けれど今は、車のトランクに入れたまま。埃をかぶっている。ボールを投げる相手もいないし、投げたい相手も思い浮かばない。そんな自分が情けなくて、でも誰かに話す勇気もなくて、このまま時間だけが過ぎていく。
時間が早く過ぎるだけの毎日に名前をつけたい
司法書士という仕事は、社会の役に立っている。それはわかってる。でも、ただ「過ぎていく」毎日じゃなく、自分なりに意味を持たせたい。どんなに小さな意味でもいい。朝の散歩でもいいし、昼休みに食べるプリンでもいい。そういう“自分だけの価値”を、もう一度見つけたいと思っている。
これは仕事なのか生き方なのか
「自分は何のために働いているのか」と思う瞬間がある。誰かのため?生活のため?いや、たぶん「それしか知らなくなった」から。生きること=働くこと、そう錯覚してしまう。でも、それでいいのか?仕事が人生のすべてじゃないと、どこかで信じていたはずなのに。
「働く」と「生きる」が切り離せなくなる瞬間
仕事をしないと不安。でも、働きすぎると疲弊する。そのバランスを見失って、今ここにいる。依頼者には感謝される。でも、自分には「ありがとう」と言う人がいない。そんな“虚しさ”に気づいても、立ち止まるのが怖い。だから、今日もまた仕事に逃げてしまう。
自分の時間の感覚を取り戻す方法とは
最近は、意識して時計を見ないようにしている。代わりに、天気や風の匂いに目を向けるようにした。散歩中に空を見上げる。たったそれだけで、少し時間が「ゆっくり」になった気がする。誰かと過ごせる時間も大切だけど、まずは自分と向き合う時間を、ほんの少しでも取り戻したい。