SNSの向こうにある幸せが突き刺さる日
忙しい業務の合間、なんとなく開いたスマートフォン。SNSには知り合いの家族写真がずらりと並んでいた。運動会の笑顔、キャンプでの記念写真、誕生日に手作りケーキを囲む光景。こちらはコンビニのサンドイッチ片手に登記の書類を読みながら昼食を済ませているのに、まるで違う世界に住んでいるようだった。別に羨ましいと口にするほどの感情じゃない。けれど、心の奥のほうで、何かが動揺していた。
たまたま目にした写真が心をざわつかせる
本当にただの偶然だった。SNSのタイムラインに流れてきた友人の投稿。家族で笑いながら写るその写真に、最初は何も感じなかった。ただ、見ているうちに、なぜか胸がザワザワしてきて、スマホをそっと伏せた。あれだけ他人の投稿に無関心だったのに、今日は妙にこたえた。季節の変わり目だからか、それとも自分の疲れのせいか。何でもない一枚の写真が、こんなにも心を乱す日があるなんて。
子どもと手をつなぐ姿に感じる「欠けているもの」
公園で子どもと手をつなぐ写真。それを見た瞬間、自分には「誰かと手をつなぐ時間」がないことに気づいてしまった。仕事ではたくさんの人と関わるけれど、それはすべて「職務上の関係」だ。休日、誰かと出かけることもほとんどない。気づけば自分のスマホの写真フォルダは、書類や登記簿、そして食べかけの弁当ばかりだ。
自分には無縁の光景として見えなくなってしまった
昔は「自分もいつか」と思っていた。家族を持ち、ささやかな幸せに囲まれる未来を。けれど今では、それが夢だったことすら思い出せない。SNSで見る幸せは、現実の延長ではなく、まるで映画のワンシーンのよう。手の届かない場所にあるものとして、ただ見上げるだけの存在になってしまった。
「比較」の罠に落ちる瞬間
あいつはあんなに幸せそうなのに、俺は何をやってるんだろう。そんな思考が、いつの間にか頭の中を巡り始める。意識していないつもりでも、人は比べてしまう。SNSはそれを助長する。他人の輝かしい瞬間だけが切り取られて見えるから、自分の生活がどんどん色あせて感じる。やってられない、と思いながら、またスマホを見てしまう。
こっちは一人でスーパー、あっちは家族でピクニック
土曜日の夕方、近所のスーパーで半額シールのついたお惣菜を買う。それはもう日常だけど、その帰りにSNSを開いて、家族でピクニックに行ったという投稿を見てしまうと、なんとも言えない気分になる。誰も悪くない。ただ、「自分は今、一人で弁当を選んでた」って事実が急に重たくなるのだ。
自分の選択が間違っていたのかと疑ってしまう
司法書士という道を選んだとき、覚悟はしていた。忙しいし、出会いも少ない。それでも「やりがい」や「人の役に立つ仕事」を理由に自分を納得させてきた。でも、こうやって他人の人生がキラキラ見えてくると、自分の選択って本当にこれでよかったのかと、不安になる。間違ってはいない。けど、正解だったとも言い切れない。
司法書士という孤独な看板
「士業」は一見華やかに見えるかもしれない。名刺には肩書きがあり、依頼者から感謝される仕事だ。でも、実際は一人で抱える責任と孤独が大きい。相談を受け、登記をまとめ、手続きを完了させる。誰かの人生の節目に立ち会うことも多いけれど、自分自身の人生は、なんとなく止まったままだ。
相談者の家族には寄り添うのに、自分はどこか置き去り
依頼者の中には、ご家族連れで事務所に来る方も多い。相続や贈与の話をしながら、子どもが机の下で遊んでいたりする。そんな時、こちらは笑顔で応対しながらも、どこか心の奥が冷えていく。人の人生には寄り添えるのに、自分の人生には誰もいない。そんな感覚に、ふと気づいてしまう。
お祝いの登記の帰り道が、やけに静かに感じた
先日、新築祝いの登記を担当した。依頼者は若い夫婦で、打ち合わせ中も終始笑顔だった。帰り道、車の中で静かに流れるラジオを聞きながら、なんとなくため息が出た。「今日もいい仕事をした」という満足感と、「今日も誰にも話せない日だった」という寂しさが同居していた。
共感と孤独のはざまでコラムを書く理由
こんなこと、普段は口に出さない。出したところで笑われるか、「気にしすぎじゃない?」で終わる。でも、こうやって言葉にして残しておくことで、どこかで同じように感じている誰かが「自分だけじゃない」と思ってくれるかもしれない。愚痴でも弱音でも、書けば少し楽になる。だから、僕は書いている。
誰かにとって「自分だけじゃない」と思える場に
司法書士に限らず、誰でもふと孤独を感じることはあるはずだ。SNSの投稿が輝いて見える夜、仕事帰りのスーパーで立ち止まる瞬間、ふと自分の人生を振り返る時間。そんな時に、ここで綴った言葉が誰かに届いてくれたら嬉しい。「そうそう、自分もだよ」と呟いてもらえたら、それで十分だ。
愚痴でもいい、ここに書けば少しは楽になる
このコラムは、誰かに向けた手紙でもあり、自分自身への独白でもある。強がらなくてもいい場所。愚痴ってもいい場所。家族写真に動揺したって、泣いたって、全然いい。そんな風に、自分を少しでも許してあげられるように、この場所を使いたいと思っている。