朝の机に座った瞬間、心がどこかに置き去りになる
いつものように事務所のドアを開けて、パソコンの電源を入れ、書類の山に向かう。だが最近、その「いつも通り」が妙に重たい。業務は回っている。依頼もある。生活に困っているわけでもない。けれど、朝のデスクに座った瞬間、心がスッとどこかに抜けていく感覚がある。「また、今日もやるんだ」と口には出さないが、内心では小さなため息をついている。何も嫌なことが起きているわけじゃないのに、なぜか気持ちは空っぽ。そんな朝が、増えてきた。
依頼者の人生を動かす重みと責任
登記や相続、遺言…こちらに持ち込まれる案件は、どれも「その人の人生の節目」だ。そう考えると、こちらのミスは許されない。だから神経をすり減らすように確認して、書類を整えて、時には感情のケアまで求められる。でも、終わったあとの達成感はあまりない。責任を果たした安堵よりも、ひと仕事終えた空虚感が勝る。これは、やりがいではなく「義務」に近い。誰かの人生を支えているのに、自分がどんどん摩耗している気がしてならない。
感謝されることもある、でもそれだけでは埋まらない
「先生のおかげです」と言ってくださる方もいる。涙ながらに頭を下げられたこともある。そういう瞬間に、少しだけ救われる。それでも、帰り道には妙なむなしさが残る。家に帰っても誰かが待っているわけでもなく、食事もコンビニ。感謝の言葉があっても、それで心の空白が埋まるわけじゃない。「仕事は誰かの役に立っている」と信じたいけれど、その“誰か”に囲まれて自分が癒やされるわけじゃない現実に、立ち止まってしまう。
「先生のおかげです」と言われた日でも虚無感は消えない
ある日、長年揉めていた相続問題がようやく解決し、ご家族全員から「ありがとうございました」と深々と頭を下げられた。あの日の依頼者の笑顔は、今でも記憶に残っている。でも不思議なことに、事務所に戻った瞬間、まるで舞台が終わった後の舞台袖のような、シーンとした孤独に襲われた。「あの人たちの人生は少し前に進んだ。でも俺の人生はどこにも進んでない」と思ってしまった。良いことをしたはずなのに、なぜこんなに空しいのだろう。
事務所の空気に慣れすぎて、自分の感情が鈍っていく
気づけば、感情の起伏が少なくなっている。忙しさに追われてるだけなのかもしれないが、喜怒哀楽の「喜」と「楽」があまり思い出せない。電話が鳴っても、書類が山積みでも、それに淡々と対処するだけの日々。感情が摩耗しているというより、感情の使い方を忘れてしまったような感覚がある。無表情で仕事を続けている自分がふと鏡に映ると、「こんな顔して働いてるんだ」と驚くこともある。きっと、心のどこかが置いてきぼりになっている。
ひとりきりの昼休み、話す相手もいない
昼食はもっぱら事務所の奥で一人。事務員さんは外に出ていることが多いし、誘うほどの仲の人もいない。テレビもつけず、スマホも見る気が起きず、ただ黙って弁当を食べる時間。それが30分ほど続く。周囲の音が妙にリアルに聞こえて、「ああ、今日も俺は一人なんだな」と実感する。誰にも話しかけられないことが楽なときもある。でも、毎日がそれだと、だんだんと「人としての温度」が下がっていくような気がして、ちょっと怖くなる。
「忙しいですね」が会話の9割になっていないか
依頼者とも、士業仲間とも、つい言ってしまう「忙しいですね」。これで会話が成立してしまうのが怖い。「最近どう?」と聞かれても、「忙しくて…」と返すのが無難だし、それ以上のことを語る余裕もない。感情を共有する機会がどんどん減ってきている。会話に感情が乗らなくなっているのは、相手じゃなく、自分の問題なのかもしれない。「忙しい」は逃げ道でもあるが、誰かとの距離を測る無意識のバリアにもなっている気がする。
そもそも何のために司法書士になったんだっけ?
あのとき、自分はなぜこの仕事を選んだのだろう?「人の役に立ちたい」とか、「資格で安定した生活を」とか、いろいろ理由はあったはず。でも今、それを心から信じられているかというと、正直あやしい。初心を忘れたというより、初心を思い出せなくなっている。目の前の仕事をこなすことだけが目的になっていて、「なぜ?」を自問する余裕がないのが現状だ。
あの頃の「やる気」と今の「義務感」
試験勉強中の自分は、未来に希望を抱いていた。あのときの努力は、自分の人生を変えると信じていた。でも今は、朝から晩まで仕事に追われて、休日は寝て終わる。やる気はいつの間にか義務感にすり替わり、希望だったはずの資格は鎖のようになっている。独立して自由になるはずだったのに、時間も感情もすり減らして、ただ「こなす」毎日。あの頃の自分が今の自分を見たら、どう思うのだろうか。
理想を語るのが恥ずかしくなったのはいつからだろう
「こういう事務所にしたい」「こんな風に依頼者と向き合いたい」…そんな話をしていた頃もあった。でも今は、そんな理想を口にすることが照れくさい。周囲の目も気になるし、何より自分がそんなことを信じきれていない。「現実は甘くない」とか、「理想だけじゃ食えない」と自分に言い聞かせて、どこかであきらめている。だけど、本当はまだ、理想を捨てきれていない自分もいて、その中途半端さがまた苦しい。
誰かの期待に応えようとして、自分の声を忘れた
「司法書士らしく」とか、「依頼者に安心感を」とか、いろんな期待に応えようとして、気づいたら自分の声が聞こえなくなっていた。自分がどうしたいのか、何が好きなのか、もうよくわからない。型にはまった言葉で対応し、ルーティンで処理していくうちに、「自分」という人格が仕事に飲み込まれていく感覚。まるで、役を演じ続けているような日々。自分の人生なのに、自分が主役じゃない。そんな矛盾が、胸に居座り続けている。
(続きます) 続きのHTML(後半:休日の話から終わりまで)を出力しましょうか? あなた: html形式にしてコピペできる形で出力してください ダウンロードファイルにはしないでください。!DOCTYPE htmlからスタートしてhtmlを閉じるところまで書いてください。最後まで出力してください。
朝の机に座った瞬間、心がどこかに置き去りになる
いつものように事務所のドアを開けて、パソコンの電源を入れ、書類の山に向かう。だが最近、その「いつも通り」が妙に重たい。業務は回っている。依頼もある。生活に困っているわけでもない。けれど、朝のデスクに座った瞬間、心がスッとどこかに抜けていく感覚がある。「また、今日もやるんだ」と口には出さないが、内心では小さなため息をついている。何も嫌なことが起きているわけじゃないのに、なぜか気持ちは空っぽ。そんな朝が、増えてきた。
依頼者の人生を動かす重みと責任
登記や相続、遺言…こちらに持ち込まれる案件は、どれも「その人の人生の節目」だ。そう考えると、こちらのミスは許されない。だから神経をすり減らすように確認して、書類を整えて、時には感情のケアまで求められる。でも、終わったあとの達成感はあまりない。責任を果たした安堵よりも、ひと仕事終えた空虚感が勝る。これは、やりがいではなく「義務」に近い。誰かの人生を支えているのに、自分がどんどん摩耗している気がしてならない。
感謝されることもある、でもそれだけでは埋まらない
「先生のおかげです」と言ってくださる方もいる。涙ながらに頭を下げられたこともある。そういう瞬間に、少しだけ救われる。それでも、帰り道には妙なむなしさが残る。家に帰っても誰かが待っているわけでもなく、食事もコンビニ。感謝の言葉があっても、それで心の空白が埋まるわけじゃない。「仕事は誰かの役に立っている」と信じたいけれど、その“誰か”に囲まれて自分が癒やされるわけじゃない現実に、立ち止まってしまう。
「先生のおかげです」と言われた日でも虚無感は消えない
ある日、長年揉めていた相続問題がようやく解決し、ご家族全員から「ありがとうございました」と深々と頭を下げられた。あの日の依頼者の笑顔は、今でも記憶に残っている。でも不思議なことに、事務所に戻った瞬間、まるで舞台が終わった後の舞台袖のような、シーンとした孤独に襲われた。「あの人たちの人生は少し前に進んだ。でも俺の人生はどこにも進んでない」と思ってしまった。良いことをしたはずなのに、なぜこんなに空しいのだろう。
事務所の空気に慣れすぎて、自分の感情が鈍っていく
気づけば、感情の起伏が少なくなっている。忙しさに追われてるだけなのかもしれないが、喜怒哀楽の「喜」と「楽」があまり思い出せない。電話が鳴っても、書類が山積みでも、それに淡々と対処するだけの日々。感情が摩耗しているというより、感情の使い方を忘れてしまったような感覚がある。無表情で仕事を続けている自分がふと鏡に映ると、「こんな顔して働いてるんだ」と驚くこともある。きっと、心のどこかが置いてきぼりになっている。
ひとりきりの昼休み、話す相手もいない
昼食はもっぱら事務所の奥で一人。事務員さんは外に出ていることが多いし、誘うほどの仲の人もいない。テレビもつけず、スマホも見る気が起きず、ただ黙って弁当を食べる時間。それが30分ほど続く。周囲の音が妙にリアルに聞こえて、「ああ、今日も俺は一人なんだな」と実感する。誰にも話しかけられないことが楽なときもある。でも、毎日がそれだと、だんだんと「人としての温度」が下がっていくような気がして、ちょっと怖くなる。
「忙しいですね」が会話の9割になっていないか
依頼者とも、士業仲間とも、つい言ってしまう「忙しいですね」。これで会話が成立してしまうのが怖い。「最近どう?」と聞かれても、「忙しくて…」と返すのが無難だし、それ以上のことを語る余裕もない。感情を共有する機会がどんどん減ってきている。会話に感情が乗らなくなっているのは、相手じゃなく、自分の問題なのかもしれない。「忙しい」は逃げ道でもあるが、誰かとの距離を測る無意識のバリアにもなっている気がする。
そもそも何のために司法書士になったんだっけ?
あのとき、自分はなぜこの仕事を選んだのだろう?「人の役に立ちたい」とか、「資格で安定した生活を」とか、いろいろ理由はあったはず。でも今、それを心から信じられているかというと、正直あやしい。初心を忘れたというより、初心を思い出せなくなっている。目の前の仕事をこなすことだけが目的になっていて、「なぜ?」を自問する余裕がないのが現状だ。
あの頃の「やる気」と今の「義務感」
試験勉強中の自分は、未来に希望を抱いていた。あのときの努力は、自分の人生を変えると信じていた。でも今は、朝から晩まで仕事に追われて、休日は寝て終わる。やる気はいつの間にか義務感にすり替わり、希望だったはずの資格は鎖のようになっている。独立して自由になるはずだったのに、時間も感情もすり減らして、ただ「こなす」毎日。あの頃の自分が今の自分を見たら、どう思うのだろうか。
理想を語るのが恥ずかしくなったのはいつからだろう
「こういう事務所にしたい」「こんな風に依頼者と向き合いたい」…そんな話をしていた頃もあった。でも今は、そんな理想を口にすることが照れくさい。周囲の目も気になるし、何より自分がそんなことを信じきれていない。「現実は甘くない」とか、「理想だけじゃ食えない」と自分に言い聞かせて、どこかであきらめている。だけど、本当はまだ、理想を捨てきれていない自分もいて、その中途半端さがまた苦しい。
誰かの期待に応えようとして、自分の声を忘れた
「司法書士らしく」とか、「依頼者に安心感を」とか、いろんな期待に応えようとして、気づいたら自分の声が聞こえなくなっていた。自分がどうしたいのか、何が好きなのか、もうよくわからない。型にはまった言葉で対応し、ルーティンで処理していくうちに、「自分」という人格が仕事に飲み込まれていく感覚。まるで、役を演じ続けているような日々。自分の人生なのに、自分が主役じゃない。そんな矛盾が、胸に居座り続けている。