あの日、何度も「すみません」と言われた
ある日の午後、事務員さんに業務の流れを説明していた。何度も説明したはずの登記の進行手順だったけれど、彼女の表情はどこか不安げで、説明を終えるたびに「すみません、もう一度だけ教えてください」と繰り返された。正直、忙しい時間帯だったこともあり、内心「またか…」と思ってしまった。けれども、彼女の「なんとか覚えたい」という必死な気持ちは痛いほど伝わってきて、怒る気にもなれなかった。あの「すみません」という言葉の裏にある焦りと申し訳なさを、私はなんとなく分かる気がしていたからだ。
覚えられないことを責められる辛さ
新しいことを覚えられないとき、人は自分を責めがちになる。特に真面目な人ほど、「なぜ自分だけ何度も聞いてしまうのか」と落ち込む。私自身も若い頃、登記申請書のミスを何度も指摘され、そのたびに胃がキリキリしたことを覚えている。覚えたくてメモも取っているし、家でも見返している。それでも本番になると頭が真っ白になる。そんなとき、周囲の目線や態度が冷たいと、ただでさえ不安な気持ちが倍増してしまう。「何度も聞いてすみません」という言葉には、「責めないでください」という叫びが隠れているように思う。
理解しようとしているのは伝わるけど
事務員さんも、一生懸命だった。私の説明を何度もノートに書き込み、スマホで写真を撮り、覚えようとしている姿は本当に真面目そのもの。でも、私の側も余裕がないから、「そこはさっき言ったよね?」なんてつい口調が強くなってしまう。そのたびに彼女の表情が曇る。理解したいという気持ちは伝わる。だからこそ、こちらが雑に扱ってしまうと、その気持ちを踏みにじってしまうことになる。けれども現実には、こっちもこっちで、毎日ぎりぎりのスケジュールで動いている。だから感情に余裕がないのも事実なのだ。
説明する側のエネルギーが削れていく
何度も同じ説明を繰り返すのは、正直言ってかなりのエネルギーを消耗する。自分ができることを言語化するのは難しいし、相手の理解度に合わせて噛み砕いて話すのは、思っている以上に疲れる作業だ。たとえば、普段何気なく自転車をこいでいる人が「どうやって自転車に乗ってるの?」と聞かれて言葉で説明するようなもの。説明する側も、気を使いながら自分の言葉を探していて、それが何度も続くと、自分自身の無力さや焦りも感じてくる。「なんでこんなに伝わらないんだろう」と思ってしまう瞬間が、確かにあった。
教えることのむずかしさと虚しさ
教えるという行為は、ただ知識を渡せば終わり、というものではない。相手がどう受け取るか、どこでつまずいているのかを観察して、言葉を選び直す。その繰り返しだ。ところが、こちらがいくら頑張っても、結果が見えづらいと、だんだんと空しさが募ってくる。「また聞かれるのかな」「ちゃんと伝わっているのかな」といった不安が、教える側のモチベーションをじわじわと削っていく。私もあるとき、「なんで俺ばっかり説明してるんだろう…」と一人で机に突っ伏したことがある。
自分の説明が悪いのかと悩み始める
何度も同じ説明をしていると、今度は自分の説明が悪いのではないかと疑い始める。「もしかして俺の説明、分かりづらいのか?」という思考が頭をよぎる。でもそのたびに、「いや、これは常識の範囲だろ」と言い訳もしたくなる。相手を責める気はない。でも、自分を責めすぎるのもつらい。この「説明しても伝わらない」という体験は、自己否定と他者不信の間を行き来するような、不思議な心の疲れを残す。そして、その疲れが知らず知らずのうちに、日々の仕事に重くのしかかってくるのだ。
「伝わらない日」は誰にでもあるけど
どんなに丁寧に話しても、うまく伝わらない日というのは、どうしてもある。その原因が自分なのか相手なのか、あるいはその日の天気や空気感なのか、はっきりしないことも多い。でも確かに言えるのは、それが「自分だけの失敗ではない」ということ。私もそうだったし、きっとこれを読んでいるあなたも、同じような経験があると思う。だからこそ、何度も聞かれるたびに「またかよ…」とため息をつきながらも、「まぁ、そういう日もあるか」と思える自分でいたい。そう思いながら、今日もまた説明を続けている。
仕事をお願いするってこんなに大変だった?
一人で何でもやっていた頃には気づかなかったが、人に仕事をお願いするというのは、想像以上に大変だ。単に「これお願いね」と渡して終わりではない。相手の理解度、性格、習熟度を考えながら、順序立てて伝えて、フォローも必要になる。それをやって初めて、「あぁ、任せるってこういうことか」と気づく。頼るって、なんか簡単な言葉だけど、実はめちゃくちゃ難しい行為なんだよね。
新人教育の“地味な重さ”
新人を育てるというのは、地味で根気のいる作業だ。ひとつひとつの業務を、順番を守って、なぜそうするのかまで含めて伝える。だけど相手が理解してくれるとは限らないし、覚えたと思ったら次の日には忘れていることもある。そんな繰り返しに、こっちの心が折れそうになることもある。特に小さな事務所では教育担当なんて存在しないから、全部自分がやるしかない。毎日その重さを一人で背負ってる感覚が、なんとも言えずつらい。
分かってくれる前提で話してしまう自分
教えるとき、つい「これは常識だろう」と思って説明を省略してしまう。けれど、当然と思っていることほど、相手には未知だったりする。たとえば、「登記識別情報は大事だから失くさないように」とだけ言っても、何がどう大事なのか伝わっていなければ、ピンとこない。つまり、自分の中の「当たり前」を見直すことから始めないと、伝えるってことは成立しないんだなと痛感する。つい面倒くさくなって省くと、後でそのツケが回ってくるのだ。
「これくらい普通だよね」が通じない壁
「これくらい普通だよね」と思っていたことが通じないとき、驚きと同時にがっかりしてしまう。たとえば、電話の応対一つとっても、「名乗って、聞いて、メモして、伝える」なんて、当たり前のことだと思ってた。でも、それができない新人に出会って、「あれ、自分の基準って高すぎたのか?」と混乱する。普通ってなんだっけ、と自問自答するうちに、「あぁ、やっぱり一人でやったほうが早い」となる。でもそれじゃ何も変わらないんだよね。分かってるけど、つい愚痴ってしまうのが正直なところだ。
あの人の「もう一度だけ」に救われたこと
何度も聞かれるのはしんどい。でも、ある日、事務員さんに言われた「もう一度だけ、教えてもらってもいいですか?」という言葉には、何か温かいものがあった。ただの確認ではなく、こちらを信頼してくれているような、そんな気がした。その一言で、心の重りが少し軽くなった気がして、私も少し笑って「もちろん」と答えられた。結局、教えるというのは信頼のキャッチボールなんだと思う。受け止めてもらえると、投げ返すのも少しだけ楽になる。
今日もまた誰かに説明する自分がいる
今日も誰かに説明をしている。きっと明日もそうだろう。正直、またかと思うこともある。でも、不器用でも、時間がかかっても、少しずつ覚えてくれる姿を見ると、「やっててよかった」と思える瞬間がある。だから私は、また「もう一度だけ教えてください」に応えようと思う。自分もかつて、何度も聞いて、何度も失敗して、ようやく今ここにいるのだから。