後見業務に感じる「やりがい」と「虚しさ」の間
司法書士として成年後見業務に携わってきた中で、確かにやりがいを感じる瞬間はあります。ただ、同時に湧き上がってくる虚しさも無視できません。被後見人の人生を守るという大きな責任を背負いながら、実際には「感謝されることは少ない」「報われる気持ちになれない」と感じることが多々あります。特に地方で一人事務所を運営していると、日々の業務の中で孤独がじわじわと忍び寄ってくるのです。やればやるほど自分が擦り減っていくような感覚。それが、この業務のジレンマだと感じています。
正義感で始めた後見業務が、なぜか重荷に変わる
最初は「誰かのためになる仕事がしたい」と思っていました。実際、家族の支援を受けられない高齢者や障がいのある方にとって、後見人の存在は必要不可欠です。でも、年々その「正義感」は摩耗していきました。感謝されることはまれで、トラブルが起こればすぐに批判の矢面に立たされる。まるで、自分の善意が無力であるかのように感じる瞬間があります。自分の善意を守るために、感情を押し殺すしかなくなるのです。
「ありがとう」の言葉が届かない現場
ある日、被後見人の入院手続きや身元保証、病院とのやりとりを丸一日かけて対応しました。事務所に戻ったのは夜の9時。へとへとでした。でも、翌日には家族から「もっと早くやってほしかった」と苦情の電話が。もちろん家族も不安なんでしょうけど、「ありがとう」の一言があれば報われたのに、というのが本音です。感謝を期待してはいけないとわかっていても、人間ですから、やっぱり心は折れます。
支援しているのに、責められてしまう構造
後見制度は理想としては美しい。でも現実は、支援者であるはずの私たちが、常に疑われ、責められる側になることもあります。たとえば通帳管理ひとつとっても、「お金を抜いてるんじゃないか」と裏で疑われていたことも。まったくの冤罪でも、言い訳がましくなるのが嫌で、釈明もせず黙って耐えるしかない。この「疑われる立場」であることが、じわじわと精神にくるんです。
孤独を感じる瞬間と、逃げられない責任
特に夜、ひとり事務所で帳簿をつけながらふと思うんです。「なんで自分だけこんなに背負ってるんだろう」って。誰かに相談しても、結局は「大変だね」で終わる。家族もいない、同僚もいない、ひとりの空間で、責任だけがどんどん積み重なっていく。この重さは、なかなか誰にも理解されない。だけど、逃げるわけにはいかないんですよね。裁判所からの選任もあるし、被後見人の生活がかかってる。そう考えると、身動きがとれなくなるんです。
制度の壁と実務のズレに挟まれて
後見制度そのものに問題があるとは言いません。でも、現場で感じるのは「制度が実務に追いついていない」こと。たとえば家庭裁判所とのやりとりにしても、現場の感覚とずれていると感じることが多々あります。書類の様式や報告義務は年々厳格になっていき、正直、現場での支援よりも書類づくりの方が時間を食っていることさえあるのです。
家庭裁判所との温度差に戸惑う
「そんなに細かく報告しないといけないの?」と思うくらい、家庭裁判所からのチェックは厳しいです。たとえば、3,000円の買い物のレシートがないと「支出の証明が不足」と指摘される。現場では咄嗟に現金で払ってしまうこともあるのに、書類の世界ではそれが通用しない。まるで、人の生活ではなく帳簿の整合性だけを見られているような気持ちになります。
書類の精緻さばかり求められる現実
まさに、書類地獄です。現場で動けば動くほど、記録しないといけないことが増える。そしてその記録にミスがあると信用を失う。誰も見ていないし、感謝もされないのに、完璧な帳簿が求められる。正直、そんなに丁寧に記録する時間があるなら、もう少し被後見人に会いに行って声を聞いてあげたい。そう思っても、現実は書類優先。そのジレンマに毎回苦しめられています。
報酬審判と労力がまるで釣り合わない
報酬の額を決めるのは家庭裁判所。でも、実際の労力や精神的負担に比べて、その額はとても見合っているとは言えません。月額2万円の報酬のために、何十時間も動いているケースもある。それでも「公益性の高い仕事だから」と言われて終わりです。いやいや、こっちも生活かかってるんですよ…。気持ちだけで続けるには、あまりにも過酷です。
missing value=抜け落ちたものとは何か
後見制度における「missing value」、それは「人間らしさ」ではないかと思います。制度も書類も大事です。でも、そこに「心」があるかどうか。「この人の人生を支える」という視点が、どこかで置き去りにされている気がしてならないのです。後見人も人間です。感情もあれば、限界もある。そのことが制度全体からすっぽり抜け落ちているように感じるのです。
「誰のための制度なのか」が見えなくなる瞬間
制度のために動いているのか、人のために動いているのか。わからなくなる瞬間が増えてきました。書類を整えることが目的になってしまっていると気づいたとき、愕然としました。本来は被後見人の幸せのための制度。でも今や、制度を守るために人が使われているような逆転現象が起きている。その違和感が、私の中で日に日に大きくなっています。
被後見人の幸せが見えづらい制度設計
被後見人が本当に望んでいることは何なのか、それを見つけることがどんどん難しくなっています。制度に従えば安全。でも、それが必ずしもその人の人生にとって「幸せ」かは別問題です。たとえば、「危ないから外出を控えて」と言ってしまうこと。それは正しいけれど、生きる楽しみを奪っているかもしれない。制度の名のもとに「人らしさ」を奪っているような気がするのです。
家族の不在、そして地域の無関心
そして、後見人が担う役割があまりにも多すぎる背景には、家族の不在、地域の無関心があります。もともと家族が支えるはずだった部分まで、全部私が引き受ける。隣の人が孤独死しても誰も気づかないような時代に、後見人だけが「すべてを見てください」と言われても、無理な話です。制度はそこを埋めようとしてるけど、人間ひとりに全部を背負わせるのは酷というものです。
専門職後見人としての「人間らしさ」の限界
専門職としての責任があることは理解しています。でも、「人として」の部分が求められすぎると、やがて燃え尽きます。「家族の代わりになってください」と言われても、こっちも血が通った人間です。感情だって波があるし、ミスもします。それでも完璧を求められるのが、この業務のつらさです。私自身、何度も「もう限界かも」と感じたことがあります。
自分の感情に蓋をして働く日々
後見業務をしていると、自分の感情を押し殺す訓練ばかりしているような気がします。怒りや悲しみ、悔しさや不安…。そういった感情を飲み込んで、冷静に、理性的に対処することが求められる。でも、そうして蓋をしていると、自分がどんどん空っぽになっていくのを感じるんです。missing value、それは「自分自身」なのかもしれないと、ふと思うことがあります。
事務所の利益と理想のせめぎ合い
現実的には、後見業務ばかりでは事務所が回りません。他の登記案件や書類業務もこなさなければならず、理想だけでは食っていけない。でも「後見人としての理想」も捨てきれない。このバランスが本当に難しいんです。心の中では「もうやめたい」と思いながらも、誰もやりたがらないから自分が続けている。そんな状態で、果たして良い支援ができているのか、時々自問します。
「情」だけじゃやっていけない現実
つい「情」に流されて無理をしてしまうこともあります。でも、結局それが自分を壊してしまう。被後見人のためにと頑張っても、制度は「情」を評価しません。報酬にも反映されないし、時間だけがどんどん奪われていく。情だけでは持たない、それがこの仕事の現実です。だからこそ、心のどこかに「割り切り」が必要になってしまうのです。
それでも、この仕事を辞めない理由
これだけ愚痴を書き連ねながらも、結局私はこの仕事を辞めていません。きっと、どこかで「誰かがやらなきゃ」という気持ちが残っているからだと思います。うまくいかないことばかりだけど、ふとした瞬間に感じる「役に立てた」実感。それが、次の一歩を踏み出す力になることもあるんです。
誰かがやらなきゃ、という使命感
「他にやる人がいないから」「誰かの役に立てるなら」――そんな気持ちで続けている司法書士も多いと思います。私もそのひとり。後見人の仕事は目立たないし、面倒なことが多いけれど、支援がなければ困る人が確実にいる。制度が未熟でも、現場がしんどくても、それでも必要としている人がいるから、続けるしかないんです。
同業者との愚痴の共有が唯一の救い
定期的に開かれる研修会や会合で、同じような悩みを持つ同業者と話す時間が、私にとっての癒しです。「ああ、みんな同じようにしんどいんだな」と思えるだけで、少し楽になる。笑えるほどくだらない愚痴の応酬が、何よりのガス抜きになるんです。真面目な話ばかりじゃ、心が持ちません。
時々ふと届く「助かった」の一言に救われる
そして、ごく稀にですが、「本当に助かりました」「先生がいてくれてよかった」と言われることがあります。その一言が、心に染みるんです。報酬よりも、制度よりも、その一言が支えになる。結局、私がこの仕事を続けているのは、そういう「人とのつながり」を感じる瞬間があるからなのかもしれません。