誰にも言えない夜、心の居場所がなくなるとき
気づいたら、誰にも話していなかった
司法書士として働く中で、相談相手がいないという状況が当たり前になってしまっていた。最初は「忙しいから仕方ない」と思っていたが、気がつけば日常の出来事も、心のモヤモヤも、誰にも伝えずに飲み込む癖がついていた。昼は依頼人や役所と話し、夜は書類に追われる。誰かと話す時間がないのではなく、話す「余裕」がなくなっていく。この孤独は、静かに心を蝕んでいく。
相談できないのではなく、相談する気力がない
「相談できる人がいない」というより、「相談しようという気持ちすら湧かない」というのが、今の本音だ。誰かに頼ることは、ある種のエネルギーを使う。けれど、朝から晩まで仕事に追われ、夜にはもう話す気力もない。昔、飲み屋で愚痴を言い合っていた友人たちも、家庭を持ち、疎遠になった。電話をかけるのも気が引ける。だからこそ、余計に「一人で抱える」が習慣になっていく。
「話す時間がない」は本音か言い訳か
本当に時間がないのか? それとも、話すことで余計に傷つくのが怖いだけなのか? ふと、そんな疑問が浮かぶ。誰かに「大丈夫?」と聞かれても、「大丈夫です」としか返せない。弱さを見せるのが恥ずかしいというより、見せたところで何も変わらないという諦めに近い感情がある。話すことで楽になると分かっていても、その一歩が踏み出せないのは、自分自身が誰よりも自分を閉じ込めているからかもしれない。
いつからか、弱音を吐くのが怖くなった
20代の頃は、失敗談も笑い話にできていた。それが今は、「こんなことで悩んでるの?」と思われるのが怖い。特に司法書士という仕事は、頼られる側である以上、頼る姿を見せることにためらいがある。何でも自分でできて当然、という無言のプレッシャーがある。気づけば、弱音を飲み込み、ひとり事務所の椅子に沈む夜ばかりが増えていた。
事務員との距離感、絶妙に悩ましい
うちの事務所には、ひとりだけ事務員さんがいる。真面目でしっかりしていて、本当にありがたい存在だ。ただ、あくまで雇用関係であり、年齢も離れている。仕事上の会話はあるが、プライベートな話をすることはない。むしろ、気を使って距離をとっている自分がいる。「今日ちょっとしんどくてね」なんて、ふと口に出せたら、少しは楽になるのかもしれないけれど。
愚痴をこぼせない相手と、毎日向き合う苦しさ
仕事中に愚痴をこぼせる相手がいないのは、想像以上に堪える。たとえば、役所とのやり取りで無駄に時間を取られたとき、「ほんとあの対応ひどかったね」って誰かに一言こぼすだけで、救われることがある。でも、それができない日常が続くと、どんどん自分の中にストレスが蓄積していく。事務員さんの前では「上司」として振る舞う癖が染みついてしまったのかもしれない。
職場が家で、家が職場のような日々
地方で事務所をやっていると、生活圏も限られていて、仕事とプライベートの境界線が曖昧になる。気づけば、職場にいる時間の方が圧倒的に長い。帰宅しても、頭の中は明日の案件のことでいっぱい。家に帰っても「ただ眠る場所」でしかなく、心を休める時間がない。結局、職場が家で、家も職場の延長のようなものになってしまっている。
飲み会の誘いは来なくなった
数年前までは、同業者との飲み会や会合にもよく顔を出していた。でも、仕事が忙しくなったり、気力がなくなったりして断ることが増えてから、自然と誘われることも減った。誘われないのは寂しいと思う反面、誘われてもたぶん行かない。それでも、ふとした瞬間に「誰かと飲みに行きたい」と思ってしまう自分がいて、その感情に戸惑う。
「誘われなくなった」より「誘われても行けない」自分
「最近、声がかからないな」と感じることがある。でも、それは相手が悪いわけじゃない。結局、過去に何度も断った自分がいるからだ。責任感とか、仕事優先とか、そういう理由をつけてはいたが、本音を言えば疲れていたし、誰かと過ごす余裕がなかった。だから、今こうして一人でいるのは、自業自得なのかもしれない。
それでも人恋しい夜はある
孤独に慣れたはずなのに、夜になると人恋しくなる。テレビをつけっぱなしにしても、スマホをいじっても、満たされない。たまに誰かのSNSで「今日も楽しかった!」なんて投稿を見ると、胸の奥がずきっと痛む。「いいな」と思う反面、「どうせ自分には関係ない」と拗ねてしまう。そういう夜が、月に何度もある。
仕事は山積み、心は空っぽ
司法書士の仕事は、正直終わりが見えない。1件片付ければ、また1件。常に期限と責任に追われている。でも、いくら仕事をこなしても、心が満たされることは少ない。むしろ、「今日も無事に終わった」という安堵と、「誰とも話さずに終わったな」という虚しさが交互に押し寄せる。忙しさは、孤独の免罪符にはならない。
一人で頑張ることの限界
一人でやることに慣れすぎて、誰かに頼ることが下手になってしまった。でも、ふとした拍子に「限界だ」と感じる瞬間がある。ある日、パソコンの前で固まったまま動けなくなったことがあった。書類の山を前に、ただぼんやりしていた。誰にも言えないけれど、「このままじゃダメだ」と、心のどこかで叫んでいた気がする。
「誰かに助けてほしい」と口に出すことの難しさ
本当は、誰かに「ちょっとしんどい」と言いたい。でも、それを口に出すことができない。強がっているわけではなくて、言ってしまったら崩れてしまいそうで怖いのだ。誰かに頼るということは、自分の弱さを見せることでもある。その怖さが、言葉を喉元で止めてしまう。「大丈夫」と笑っている方が、ある意味では楽なのだ。
話せる相手がいたときのことを思い出す
昔、まだ独立前の頃、先輩とよく夜中まで話していたことを思い出す。何の役にも立たないような雑談でも、心が軽くなった。あの頃は、悩みを言葉にできていたし、受け止めてくれる人がいた。今は、そういう関係がなくなってしまった。けれど、ふとした拍子に、また誰かとそんな時間を過ごしたいと思う。
あの頃は、笑えていたのかもしれない
苦しいこともあったけれど、笑えていた気がする。なぜかというと、誰かと一緒にいたからだ。一緒に働く仲間や、同じ目線で話せる人がいた。今は、ひとりで何でもやっているけれど、その分だけ笑顔は減った気がする。人と話すことで、自分自身が救われていたのだと、今になって気づく。
心の中の「居場所」づくりは、今からでも遅くない
話せる相手がいないなら、自分から少しずつ関係を築いていくしかないのだろう。完璧な理解者を求めるのではなく、ほんの少しだけ話せる人をつくる。それだけでも、心はずいぶん軽くなるかもしれない。独身だし、モテないし、愚痴っぽい自分だけれど、それでも誰かと心を通わせることを諦めたくない。居場所は、他人から与えられるものではなく、自分でつくっていくものなのかもしれない。