心が動かない。笑っていても、何も感じない日が増えた

心が動かない。笑っていても、何も感じない日が増えた

心が動かない日々に気づいた瞬間

ある日、ふと気づいたんです。依頼者からの「ありがとう」が耳に入っても、何も感じなくなっていることに。昔なら、たとえ些細な感謝の言葉でも心が温まったし、やる気にもつながった。でも今は「はい、お疲れ様でした」と言って電話を切ったあと、すぐに次の案件のファイルを開いている自分がいる。あれ、俺ってこんな無機質な人間だったっけ?と我に返る瞬間が、最近やけに増えた気がします。

笑顔の裏側にある「無感情」

自分でも驚くほど、感情を表に出さなくなっているのがわかるんです。面談のときはちゃんと笑顔も作るし、相手に寄り添うようにしているけれど、心の中では何も動いていない。まるで感情のスイッチをオフにして演技しているような感覚。たぶん、相手にはバレていないと思う。でもそれが逆に怖い。心を殺してでも業務を回す──そんな働き方を続けていることが、心を静かに蝕んでいるのかもしれません。

業務を淡々とこなす日常の怖さ

司法書士の仕事は、感情よりも正確さとスピードが求められます。毎日同じような手続き、同じような説明、同じような書類。そこに感情を持ち込む余地がないと割り切っていたけれど、気づけばその「割り切り」が常態化して、自分の感覚すら鈍ってきた。何をやっても「まあ、こんなもんか」で済ませてしまう自分が怖い。かつて情熱を持っていたはずのこの仕事が、ただのルーティンになってしまっている。

嬉しいも悲しいも、ただの通過点

良い知らせが来ても「ああ、良かったですね」と淡々と返し、トラブルが起きても「まあ、対応しましょう」で済ませる。以前なら一緒に喜び、一緒に悩んでいたはずなのに、今はそれができない。喜怒哀楽がすっかり「処理対象」になってしまったようだ。まるで通勤途中の信号のように、赤でも青でもどちらでもいい。そんな風に、感情を処理することに慣れすぎてしまったのかもしれない。

感情の鈍化はいつから始まったのか

振り返ってみると、いつからかはっきりとはわからない。でも、少しずつ「感じなくなってきたな」と思い始めたのは、独立して3年を過ぎたあたりだったように思う。事務所の運営に必死で、日々をこなすことで精一杯。感情にかまっている余裕なんてなかった。気づけば、それが当たり前になっていた。

司法書士になった頃の自分を思い出す

駆け出しの頃は、どんな登記一件でも胸が高鳴った。登記簿が完成した瞬間は「よし!」と小さくガッツポーズをしたものだ。依頼者の不安そうな表情が晴れたときの喜びも、体の奥からじわっと感じていた。あの頃の自分は、今の自分をどう見るだろうか。少なくとも、何も感じないことを「成長」とは呼ばないだろう。

「達成感」が減っていく感覚

仕事の数をこなすほど、逆に達成感が薄れていった。初めての手続き、難解な案件、そんなチャレンジの瞬間にこそ感じた満足感。それが、今では「できて当たり前」になってしまったのかもしれない。慣れとは恐ろしい。感動を奪い、挑戦の価値を奪い、自分の中の喜びをも麻痺させてしまう。

小さな感謝の言葉に反応できなくなった理由

「先生、本当に助かりました」──そんな言葉に胸が熱くなっていたあの頃が嘘のようだ。今は、「ああ、はい。お気をつけて」と返しながら、次の予定が頭に浮かんでいる。人として大事なものを、置き去りにしてしまっているようで、自分に対して申し訳なさすら感じる。でも、正直なところ、それにすら鈍感になり始めているのが現実だ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。