誰かに頼られることが、仕事の意味になっていた
この仕事をしていると、どうしても「頼られること」が自分の存在意義のように感じてしまう。たとえば、誰かから「先生、ちょっとご相談いいですか」と声をかけられるだけで、まだ自分の居場所があるんだと安心する。逆に、誰からも頼まれない日が続くと、急に心がざわつき始める。数字では見えない不安が、じわじわと生活に入り込んでくる。司法書士としての技術や知識ももちろん大切だが、それ以前に「必要とされている」という感覚がなければ、精神的にはかなりキツい。
「先生お願いします」と言われる瞬間の重み
仕事の依頼が来るたびに、「まだ役に立てるんだ」とほっとする。依頼者はちょっとした相談のつもりでも、こちらは生きていく理由を一つもらえたような気分になる。昔、あるおばあちゃんが遺言書の相談に来て「先生しか頼れないの」と言ってくれた。その言葉が嬉しくて、夜中にふと思い出して涙が出た。そんなふうに、頼られることで自分を保っている節がある。でも、それって健全なんだろうか。
たとえ軽い案件でも、それが救いになる
簡単な名義変更の依頼や、相続のちょっとした手続き。そういう“軽い”案件だって、自分にとっては大きな意味を持つ。誰かが「この人に任せよう」と思ってくれたことが嬉しいし、それが明日の活力になる。そういう意味では、業務の内容よりも「自分が頼られた」という事実のほうがよっぽど重い。たとえ報酬が少なくても、精神的な報酬は意外と大きかったりする。
依頼が来ない日が続くと、自分の価値を疑う
一週間、電話が鳴らない。メールも来ない。カレンダーには何の予定も書かれていない。そんなとき、「自分って、もう終わったんじゃないか」と思ってしまう。もちろんそんなことはないと理性ではわかっていても、心が勝手に暴走する。そういうときは、コンビニで誰かに話しかけられるだけでも救われたりする。司法書士という仕事は、孤独との戦いでもある。
頼られなくなった時に訪れる、妙な静けさ
誰かに頼られることが日常になると、それが突然なくなったときに、不気味な静けさに包まれる。それは“落ち着いた”とも違う、“取り残された”という感じに近い。無理してでも何か予定を入れようとするのは、その静けさが怖いからだ。こういうのを、もしかしたら仕事依存って言うのかもしれないけれど、自覚していてもなかなかやめられない。
電話が鳴らない朝の不安
普段なら8時半ごろから電話が鳴り始める。でも、それがないと「何かミスした?」「信用なくした?」と不安が押し寄せる。そんなときは、無駄にPCの前に座って“何か起こるのを待つ”時間が生まれる。まるで釣れない釣り堀で、延々とウキを見ているような感覚。時間だけが無言で進んでいく。
スケジュールが真っ白なカレンダーを見る怖さ
Googleカレンダーを開いて、予定が何も入っていないと、心がぎゅっと締めつけられる。これは「自由」ではなく、「空白」という名の不安。やることがないわけじゃない。やらなきゃいけないことは山ほどあるのに、「誰からも頼られていない」ことのほうが気になって手につかない。効率なんてどうでもよくなるほど、心が先に壊れそうになる。
「このまま消えても誰も困らないのでは」と思う瞬間
自分がいなくなったら、事務員さんはどうするだろう。でも、それ以外に困る人はいるのか。そんなことをふと考えてしまう夜がある。もちろんこれは極端な思考だとわかっている。でも、何日も誰にも頼られないと、心が勝手にそういう方向へ走ってしまう。人間って、弱い。特に、誰かの役に立つことで自分の価値を測っているタイプは。
頼られるって、実はしんどいけど嬉しい
頼られるのは嬉しい。でも、疲れる。でも、やっぱり頼られたい。この矛盾をずっと抱えている。休日に突然の電話が来ると「うわ、またか…」とため息をつきながらも、どこかで「必要とされてる」と安心してる自分がいる。本当に面倒な性格だなと、自分でも思う。
「また自分か」と思いながらも断れない性格
「それって他の事務所でもできると思うんですけど」と言いたくなる案件でも、「じゃあやりますよ」と引き受けてしまう。たぶん、断ったあとの“後悔”のほうが面倒くさいのを知ってるから。結局、自分がしんどいほうに寄っていく。でも、これが自分の性分なんだろう。
無理して引き受けた後に後悔するのに、またやってしまう
締め切りギリギリの登記、複雑すぎる相続、深夜のメール対応。「なんでこんなに詰め込んだんだよ俺…」と後悔しながらも、また次の依頼が来たら「大丈夫ですよ」と言ってしまう。もはや病気かもしれない。でも、それでも、誰にも頼られなくなるよりはマシなんだと思ってしまう。
結局、疲れていても「先生ありがとう」の一言が欲しい
寝不足で頭が回らなくても、腰が痛くても、心が折れかけていても、「先生、助かりました」の一言を聞くと、全部チャラになる。結局、自分が欲しいのは報酬じゃなくて“ありがとう”の言葉なのかもしれない。自分の存在を認めてもらえる、それだけで、まだ明日もやれる。