「仕事が恋人」なんて言葉は、強がりの常套句
「仕事が恋人なんです」なんてセリフを、かつての自分はどこか誇らしげに語っていた気がします。でもそれは、本音じゃありませんでした。本当は、誰かに必要とされたいし、温かい言葉をかけてほしいだけだったのかもしれません。ただ、寂しいと認めるのが怖くて、「仕事があればそれでいい」と自分に言い聞かせていた。そんなふうに過ごすうちに、気づけば本当に「仕事しかない人間」になってしまっていたのです。
ひとりの時間を埋めるように働く日々
休日に誰かと出かける予定があるわけでもなく、連絡を待つ相手もいない。だから、とにかく予定を入れるようにしていました。法務局への提出、書類作成、顧客対応…誰かと会話をしていれば寂しくない。そんなふうに、ひとりの時間をなるべく作らないように、仕事を詰め込んでいたのです。
予定が埋まれば寂しさは消える…はずだった
ある日、朝から晩までみっちり仕事をこなして帰宅したとき、ふと感じたのは「虚しさ」でした。誰ともプライベートな会話をしていない。笑顔を見せても、それは接客用の仮面。予定が埋まっていても、心の隙間はちっとも埋まっていなかったことに、そのときようやく気づいたんです。
「忙しいから恋愛できない」って本当か?
「出会いがない」とか「忙しいから無理」とか、口ではいろいろ言ってました。でも本当は、自分に自信がなかっただけなんです。地方で一人事務所を回してる司法書士なんて、魅力的に見えるはずがない。誰かに見つけてもらえるわけがない。そうやって恋愛の可能性を自ら遠ざけていたのかもしれません。
地方の司法書士という孤独な戦場
地方の司法書士として独立して十数年。仕事はありがたいことに絶えません。でも、そのぶん誰にも頼れない日々が続いています。専門職である以上、結局のところ最後に責任を負うのは自分。周囲に愚痴をこぼせる人がいない分、気持ちを抱え込んでしまう。そんな日々が、少しずつ心を蝕んでいくのを感じています。
お客様第一、それが自分を後回しにする癖
司法書士としての使命感は持っているつもりです。依頼者の不安を取り除くため、できる限りのことをする。でも、その姿勢が「自分の気持ちは後回し」という習慣を生んでしまったのかもしれません。気づけば、昼食もとらずに一日が終わることもあります。誰かを支えながら、自分は少しずつ擦り減っていっているのかもしれません。
電話の音が怖い、でも鳴らないのも怖い
仕事中、電話が鳴るたびにビクッとする自分がいます。「また急ぎの依頼かもしれない」「面倒な相談かもしれない」と思ってしまう。でも、数日鳴らないと今度は「このまま仕事が減っていくのでは」と不安になる。この矛盾する感情に、ひとりで苦笑いしてしまうことがあります。
「あの人なら安心」から逃れられない責任
リピーターの方や紹介で来てくださる方に「この人なら任せられる」と思ってもらえるのは嬉しいことです。でもその分、「ミスは絶対に許されない」というプレッシャーが常に背中にあります。誰かと分担できる規模の事務所ではないので、結局ひとりで全部抱え込むしかない。それが慢性的な疲労感につながっている気がします。
事務員さんがいるだけで救われることもある
ありがたいことに、事務員さんがひとりいてくれるおかげで、事務所はなんとか回っています。話し相手がまったくいないというわけではない。でも、どこかで気を遣ってしまう自分がいるんですよね。愚痴をこぼすことも、プライベートな話をすることも、控えめになってしまいます。
でも「助けて」とはなかなか言えない現実
忙しいとき、「ちょっと手伝ってもらえますか?」の一言が言えないことがあります。自分が抱え込んだ方が早いと思ってしまうし、頼ること自体が下手なんです。結果、ストレスも疲れも全部自分の中に溜め込んでしまう。そして、その疲れに気づいたときには、もう限界を越えていたりするんですよね。
優しさはあるけど、距離はある
事務員さんは本当に気が利く方で、細かいところまで気を配ってくれます。でも、ふとした時に「この人には家族がいる」「帰る場所がある」と思ってしまうんです。自分には帰っても誰もいない。ただパソコンと布団があるだけ。その違いが、なんとも言えない距離感として心に残ります。
自分のことは、後回しにしてしまう
周囲に気を遣ってばかりで、自分自身のケアはいつも後回し。歯医者に行こうと思いながら何ヶ月も放置、健康診断の案内も棚の上。気づけば何年も、ちゃんとした休暇なんて取っていませんでした。そんな自分を「怠慢だ」と責めたくなる一方で、「誰も見てないからいいか」とあきらめも感じているのが現実です。
仕事へのやりがいは、ある。だけど…
やりがいを感じる瞬間はあります。相続で揉めていた家族が和解したとか、依頼者に「助かりました」と言われた時の充実感は、何ものにも代えがたい。でも、それだけで心が満たされるわけじゃない。むしろ、その瞬間が過ぎ去ったあとの静けさに、ぽっかりと穴が空くような感覚を覚えます。
「ありがとう」の言葉に支えられる一方で
「ありがとう」と言ってもらえると、それだけで報われた気になります。でも、ふと「この言葉をもらうために、どれだけの無理をしているんだろう」と考えてしまうこともある。善意と自己犠牲の境界線があいまいになっていって、自分をすり減らしてでも人のために動いてしまう。それが続くと、やりがいはあるはずなのに、疲弊ばかりが募ってしまうんですよね。
達成感と空虚感はいつもセットだった
大きな案件が無事に終わったとき、もちろん達成感はあります。でも、それと同時に「これでまた、しばらくは暇になるな」とか、「誰にも祝ってもらえないんだよな」といった空虚さが押し寄せてくる。誰かと分かち合える喜びがない分、感情の振れ幅がどうしても極端になってしまうんです。
燃え尽きるほど頑張っても、誰も見ていない
夜遅くまで事務所に残って、資料をまとめたり申請書類を見直したりしても、結局その努力を知っているのは自分だけ。SNSに投稿するようなことでもないし、誰かに褒めてほしいわけでもない。でも、時々思うんです。「これ、誰かに見てほしかったな」って。孤独な戦いに、観客はいない。それが、一番しんどいところかもしれません。
本当は誰かと、他愛もない話がしたかった
たぶん、難しい話じゃないんです。何気ない会話、たとえば「今日寒いですね」とか「この前観た映画が面白かった」とか、そんなやりとりがしたいだけなんです。そういう日常の断片が、心の栄養になる。でも、今の生活にはそれがほとんどない。だから、心が干からびていくような気がしています。
依頼者とは話せる。でも、それは仕事の話
依頼者とはたくさん話をします。でもそれは全部、案件に関する話。どこか感情を抑えて、冷静に対応しないといけない。たとえ親しげに話していても、心の奥を見せることはありません。だからこそ、仕事上のやりとりを終えたあとに訪れる静けさは、余計に冷たく感じられるのかもしれません。
プライベートの会話が、ふと恋しくなる
コンビニの店員さんに「温めますか?」と聞かれる声すら、どこか温かく感じてしまうことがあります。それくらい、日常のなかで誰かと雑談する機会がないんです。子どもの頃、学校から帰ってきたら母親に今日あったことを話す…そんな当たり前のことが、今はもう遠い記憶になってしまいました。
笑ってくれる誰かが、ただ羨ましい
カフェで笑い合うカップル、散歩する老夫婦、そんな姿を見るたびに、「ああ、自分にはないな」と思ってしまう。もちろん他人と比べることには意味がないとわかってる。でも、誰かと分かち合える時間がある人が、ただただ羨ましい。そう思ってしまう自分を、責めたり、受け入れたり、まだ答えは出せずにいます。