今日も、時間だけが過ぎていく ― 司法書士の独りごと
気づけば、また一日が終わっていた
朝、バタバタと事務所に入り、電話を取って書類を確認して、依頼人に説明して…気づけばもう夕方。コンビニで買った昼飯のレシートを見て「これ今日だったか」と思い出すこともある。働いているというより、時間に追い立てられて動いているだけのような感覚に襲われる。時計はきっちり回ってるのに、自分の心は置き去りになったまま。そんな日が続いている。疲れているのに眠れないのも、たぶん、どこかで納得できていないからなんだろうなと思う。
忙しいのに、満たされない日々
仕事があることはありがたい。でも、それが満足感に直結しているかというと、正直そうじゃない。登記の書類を完璧に仕上げても、誰も褒めてくれるわけじゃないし、むしろミスがないことが当たり前とされる世界。「ちゃんとしてて当然」。そう思われるだけの毎日は、どこか空しい。達成感がないわけじゃないけど、報われてる実感にはほど遠い。お金はもらっている。でも、それだけで心は満たされないというのが本音だ。
書類を片付けても、心は片付かない
机の上の書類は毎日減っていくけど、そのぶん増えるのが「もやもや」だ。あれもやらなきゃ、これも忘れてないか。終わった書類の束を見るたびに、「この作業、誰か覚えててくれるのか?」という気持ちになる。司法書士って、表に出る仕事じゃないから、感謝されることも少ない。もちろんそれが目的じゃないけど、少しくらい「お疲れさま」って言ってもらえたら、救われると思う。
タスクは減るのに、虚無感は増える
チェックリストに「完了」の印をつけるたびに、自分の中で何かが終わっていく気がする。小さな達成感のはずなのに、心の中はスカスカになる。昔はひとつ仕事が終わると、ちょっとした達成感や誇らしさがあった。でも今は、終わらせることだけが目的になってしまっている。スピード重視、効率重視。その結果、感情を置き去りにしたまま、時間だけがどんどん先に進んでいく。
「働いているだけ」のような気がする夜
仕事が終わって家に帰る。テレビをつけても、何も頭に入ってこない。スマホを眺めて、誰かの幸せそうな投稿を見て、ため息をつく。「自分は働いてるだけなんじゃないか」と思ってしまう夜。誰の役に立ってるんだろう。誰かの人生を少しでも前に進めてるんだろうか。そんなことを考えるようになったら、だいたい寝つきが悪くなる。疲れてるのに、眠れない。眠れないのに、朝は来る。
時計の針と、自分のズレ
朝、アラームが鳴るたびに「もうか」とつぶやく。目覚ましは忠実に教えてくれる。でも、自分の心はまったくついていっていない。やることが多い日は、最初から焦ってるし、暇な日は暇な日で不安になる。時計の針は正確なのに、自分はずっとズレたまま生きている気がしてならない。どこでリズムを取り戻せばいいのか、もうわからなくなっている。
朝の始まりは、すでに遅れている
起きてから事務所に着くまで、ずっと「早くしなきゃ」と思ってる。でも、実際にはもう手遅れな感じがする。やることの多さに対して、自分の処理速度が追いついていない。朝から全力疾走してるのに、スタート地点でつまずいた感覚のまま一日が進んでいく。前向きになろうとしても、「また一日が始まる」というより「また今日も間に合わない」が先にくる。
やりたいことより、やらねばならぬこと
「この本読みたいな」とか「久しぶりにあの人と話したいな」と思っても、いつも「それどころじゃない」で終わる。自由時間はゼロではない。でも、心に余裕がないから、何かを楽しむことができない。やりたいことを考えること自体が贅沢に感じてしまう。結果、「やらなきゃいけないこと」に追われる人生になってしまっている。
予定が詰まるほど、自由が失われる
予定が埋まっていることに安心する反面、それがプレッシャーになっているのも事実だ。空白があると不安、でも詰まりすぎると息苦しい。その繰り返し。結局、自由な時間がほしいわけじゃなくて、自由にできる心の余裕がほしいだけなんだろう。予定があるだけで、気持ちは拘束される。そんな生活に、だんだんと慣れてしまっているのが怖い。
自分のペースなんてものは存在しない
「自分のペースで働けるのが士業の良さです」なんて話を昔は真に受けていた。でも現実は、依頼人の都合、法務局の締切、役所の対応…他人の都合でスケジュールが埋まる日々。自由なようで不自由。誰のために働いているのか、自分でもわからなくなる。自分のペースなんて幻想だった。気づくのが遅すぎただけだ。
誰かと話す時間が、どんどん減っていく
気づけば「話す」という行為が、業務の一環になってしまった。雑談なんて、いつからしてないだろう。誰かに愚痴を聞いてほしいのに、愚痴を吐く場所もない。話すことが目的じゃなくて、常に「伝えること」「確認すること」ばかりになっている。誰かと笑って話した記憶が、最近はほとんど思い出せない。
相談じゃなくて、ただ世間話がしたい
依頼人との会話は、基本的に「相談」である。でもたまに、向こうが世間話をしてくれると、ちょっと嬉しい自分がいる。「今日は寒いですね」とか「最近どうですか?」とか、そういうどうでもいい会話に救われることがある。本当は、自分も話したい。でも、自分の話を誰かにしてもらうのって、案外難しい。だから今日も、誰とも深く関わらず、表面だけで会話を終えてしまう。
事務員さんがいることの救い
うちの事務員さんはよく気がつくし、真面目に働いてくれる。存在が救いになっているのは間違いない。でも、あくまで職場の関係だから、愚痴や弱音を気軽に吐くわけにもいかない。「この人に負担をかけたくない」と思うからこそ、逆に心を閉ざしてしまう。たまには「疲れた」と言いたいけど、それを受け止める役割を彼女に求めるのは違う気がして。
でも、深い話までは踏み込めない
信頼はしている。でも、仕事上の信頼と、心の距離は別の話だ。個人的な悩みや孤独を打ち明けるような間柄ではない。年齢も違うし、立場も違う。自分の苦しさを誰かに押しつけたくないという気持ちが強いからこそ、結果的に誰にも言えなくなる。「話せるけど、話さない」。そんな関係性が、今の自分の孤独を深めている気がする。
孤独が“通常運転”になってしまった
昔は誰かと飲みに行ったり、休日に人と会ったりしてた。でも今は、孤独な時間に慣れすぎてしまった。むしろ、人と会うほうが疲れる。それって、なんだか悲しいことだなと思う。慣れは恐ろしい。孤独に慣れれば、誰かと関わる力そのものが落ちていく。そしてまた、時間だけがどんどん過ぎていく。