ケーキ売り場で、誰のために買うのか自問した
45歳の誕生日。例年と同じく、誰にも祝われることはない。仕事帰りにスーパーに立ち寄り、なんとなくケーキコーナーを覗いた。普段ならスルーするショートケーキの並ぶ冷蔵棚が、なぜかやけにまぶしく見えた。誰のために買うでもない。でも、今日ぐらい、自分で自分をねぎらってもいいだろうと、思い切って一つトレーに取った。レジで「ご自宅用ですか?」と聞かれ、反射的に「はい」と答えた自分がちょっと情けなかった。
誕生日の通知はスケジュール帳だけが教えてくれる
朝、スマホの予定に「誕生日」とだけ書かれた通知が表示されていた。誰かからのお祝いのメッセージは来ない。LINEもメールも静かなまま。事務員さんは今日が僕の誕生日だなんて知らない。別にそれを知らせようとも思わない。子どもの頃は、ケーキとプレゼントが当たり前だった。でも大人になると、自分の誕生日が「自分でしか気づかないイベント」になる。通知はあるけれど、祝われる予定はどこにも書かれていなかった。
誰も気づかない「おめでとう」のない日
こんな日でも普通に仕事がある。朝から登記の書類を整理して、午後は法務局へ。その帰りに立ち寄ったスーパーでふとケーキが目に入り、気まぐれに一つ選んだ。「おめでとう」と言われることもなく、何となく自分への慰めのような買い物だった。誰かに祝ってもらいたい気持ちはゼロじゃないけれど、期待して裏切られるくらいなら、最初からない方が気が楽だ。
“自分で祝う”という儀式の不思議さ
部屋に帰って、袋からケーキを出し、テレビをつけながら無言で食べる。ロウソクもないし、音楽もない。儀式と言うにはあまりにも静かで、でも確かに何かを“終えた”気持ちにはなる。不思議と、こうやって毎年誕生日を一人で祝うことが習慣になっている。悲しいような、滑稽なような。でも、「何もない」よりは少しだけマシな気がしてしまうのだ。
ひとりで祝う誕生日に、何を思ったか
ケーキを食べながら、ふと「来年もこうして一人で食べているのだろうか」と考える。でも答えはだいたいわかっている。よほどの奇跡がない限り、変化はないだろう。歳を重ねるごとに、「何かが変わる期待」を捨てるのがうまくなっていく。司法書士としての仕事は続く。でもそれ以外の人生は、少しずつ止まっていっているような感覚がある。
ロウソクも歌もないケーキはただ甘いだけ
ひとりで食べるケーキは、誰かと食べるよりも味が濃く感じる。甘さが余計に口に残るのは、心の中が空っぽだからかもしれない。昔は家族で囲んでいたケーキが、今ではただの糖分摂取の手段になっている。味は変わっていないのに、感じ方が違う。それが年齢のせいか、状況のせいかはわからない。ただ、この甘さが、やけにしょっぱく感じる夜もある。
コンビニの袋に詰まった虚しさ
小さなケーキひとつと割り箸だけが入ったビニール袋。それをぶら下げて帰る自分の姿が、ショーウィンドウに映る。なんとも言えない光景だ。自分で自分を慰めているようで、見て見ぬふりをしているようでもある。通行人に見られたって別に何ともないはずなのに、どこかで「哀れに見えていないか」と気にしてしまう自分がいる。誰も気にしていないのに。
ケーキを食べる理由が「惰性」になっていた
誕生日にケーキを食べることが「恒例行事」になっている。でも、その理由が惰性になっていないかと考えることもある。「一応買っておくか」という義務感。むしろ、食べないと「本当に何もない日」になってしまう気がして、無理やりイベントを作っているだけなのかもしれない。でも、それでもいい。そうでもしないと、自分が自分を見失いそうになる。
司法書士という職業の「孤立感」
誰とも交わらず、誰かに頼られる日々。でも、それは「関わっているようでいて、誰とも関係がない」感覚に陥る。書類を通じて人の人生に関わっているのに、その人が自分のことを覚えていることは稀だ。名前を出すこともない。感謝されても、それは一時のもの。司法書士は、裏方として完璧であることを求められる分、誰にも必要とされていないような気持ちになる瞬間がある。
誰とも交わらずに終わる一日
朝から事務所にこもり、ひたすら書類と向き合う日も多い。依頼者と話す時間より、紙とPCとにらめっこしている時間の方が長い。事務員さんも忙しく、雑談を交わす余裕もない日もある。電話が鳴らない日は、本当に誰とも話さずに一日が終わる。そんな日が続くと、「社会から隔絶されてるな」と感じてしまう。それでも業務は回さなければならない。
相談者の人生に寄り添っても、自分の人生は空白
遺言、相続、登記…人の人生の節目に関わる大事な仕事をしているはずなのに、自分の人生にはまったく節目がない。誰かの「これから」を手伝いながら、自分の「今」はただ通り過ぎていくだけ。誰かの人生を整えることで、自分の人生のバランスがどこか傾いていってるような錯覚を覚えることがある。
「ありがとう」がうれしい日とそうでもない日
たまに依頼者から言われる「ありがとうございました」の一言が、心に染みる日もある。でも逆に、どこか空々しく聞こえる日もある。「この人は二度と会わないだろうな」と思うと、その言葉さえ業務の一部に思えてしまう。でもそれでも、自分がした仕事に対する評価だと思えば、受け止めるしかない。人に感謝されること自体が、希少になりつつある時代なのだから。