あの頃、外食は“ごちそう”だった
子どものころ、外食は特別な日のイベントだった。誕生日や運動会の帰りに立ち寄るファミレス、祖父母と一緒に行った中華料理屋、ちょっと背伸びして入った回転寿司。どれもが非日常で、胸を高鳴らせた記憶がある。今みたいに「とりあえず外で食べるか」なんて選択肢はなくて、外食するとなるとそれだけでワクワクした。そんな外食の記憶が、なぜか最近、ふとした瞬間に頭をよぎる。忙しい今だからこそ、あの頃の“特別”が眩しく思えるのかもしれない。
日曜の昼、家族で行ったラーメン屋
日曜の昼、父が「ラーメン食べに行くか」と言うと、家族全員がそそくさと支度を始めた。テレビを途中で切ってでも、そのラーメン屋のテーブルに座る時間が楽しみだった。いつも頼むのは決まって醤油ラーメンと餃子。兄と分け合うチャーハン。あの味を今思い出しても、正直特別に美味しかったわけじゃないと思う。でも、特別に“嬉しい時間”だった。それが今も記憶に残ってる理由なんだろうと思う。
メニューを選ぶ時間すらわくわくした
子どものころの外食って、店に入る前から楽しいんですよね。ショーケースのサンプルを眺めて、どれにしようか悩んで、やっとテーブルについたらメニューを何度もめくって。実際は頼むものなんて毎回同じなのに、それでも「今日は違うのにしてみようかな」と思う時間が特別だった。今なんて、食券機の前で3秒も迷えない。時間に追われる日々では、食べる前の楽しさなんて感じていられないのが現実です。
何でもない店が特別な場所だった
当時よく行ったラーメン屋は、いま思えば本当にどこにでもあるような普通の店でした。テーブルもベタベタしてたし、冷房も効いてなかった。でも、それでも家族で行くその店が、僕にとっては“ごちそうの場所”だった。今は高級店にも行ける年齢になったけど、あのときのあの店以上に「また行きたい」と思える場所には、なかなか出会えません。味じゃなく、時間と空気が特別だったんだと思います。
今や外食は“作業”になってしまった
司法書士として働いている今、昼ご飯といえば“すき間時間のタスク処理”の一つになってしまった。どれだけ空腹でも「楽しみ」ではなく「義務」。どこかに行くのも面倒で、結局同じ弁当屋、同じラーメン屋、同じチェーン店。しかもスマホをいじりながら片手間に食べて終わり。外食が“楽しみ”ではなく“消化”になってしまった。あの頃との落差を感じて、ふとため息をつくことがある。
昼休みに詰め込むカツ丼、味も覚えていない
この前、無意識でカツ丼を注文して、事務所に戻ってから「何食べたっけ」と考え込んでしまった。味の記憶がまったくない。空腹は満たされてるんだけど、心がまったく満たされていない。時間に追われる中で、食事すら“処理”になってしまうと、人間らしさまで削れていく気がする。あれほど大好きだった外食が、こんなにも雑なものになるとは、あの頃の自分には想像もつかなかった。
ゆっくり味わう心の余裕がなくなった
味をじっくり感じるというのは、意外に“心の余裕”がないとできないものだと思う。忙しいとき、頭の中では次の予定のことばかり考えていて、今食べているものに意識が向かない。口に運んで、噛んで、飲み込んでるのに、「味わう」ことはしてないんですよね。たまに休日にゆっくり食べられる時間があると、それだけで「今日は良い日だった」と感じられるくらい、今の自分には欠けている感覚です。
忙しさのなかで“楽しむ”ことを忘れていく
毎日がバタバタしていると、自然と“効率”が最優先になっていく。「早く終わらせよう」「とりあえず空腹を満たそう」。気づけば、日常の中で楽しみだったはずのことが、ただのルーティンになってしまう。外食に限らず、テレビを見る時間も、風呂に入る時間も、ただ時間を消費するだけになっていく。そんな生活に慣れてしまった今、ふとした瞬間に思い出す“あの頃の外食”は、胸の奥をじわっとあたためてくれる。
仕事優先で、いつの間にか心がカサカサに
朝から夜まで仕事に追われて、「今日は何曜日だっけ?」と思うことが増えました。気づけば1週間外に出ていないなんてことも珍しくない。事務員から「ちょっと外に出ませんか?」と声をかけられて、ようやく「そういえば最近、太陽見てなかったな」と気づく。仕事に没頭しているようで、実は心はすり減っている。そんなときこそ、昔みたいに「ご飯を食べに行く」という小さな楽しみが必要なんだろうなと思います。
「また今日もコンビニ飯か」とつぶやく日々
「忙しいし、仕方ない」と思って選んだコンビニ弁当。でも蓋を開けた瞬間に、「またか…」とつぶやいてしまう自分がいる。味が悪いわけでもない。でも、そこには何の“物語”もないんです。あの頃の外食には、家族の笑顔があって、特別な空気があって、記憶に残る“何か”があった。コンビニ弁当を口に運びながら、ふとそんなことを思い出すと、ちょっとだけ切なくなります。
美味しいものより、早く済むことが正義になった
最近の外食選びは、「美味しい」より「早い」が優先になっている。提供時間、混雑状況、席の空き、会計の早さ。まるで効率化ゲームみたいに店を選んでいる自分がいます。昔は「どんな味かな」「初めての店だし楽しみ」とワクワクしていたのに。今は「ここなら10分で食べ終わる」とか「駐車場が空いてるから」という理由ばかり。そんな自分に気づくと、「なんかもったいないことしてるな」と思わずにはいられません。
思い出の外食には、時間と人があった
どんなに美味しい食事でも、一人で急いで食べれば記憶に残らない。逆に、味は普通でも、誰かと一緒に食べた時間はずっと覚えている。思い出の外食には、食べたもの以上に「誰と、どんな会話をしながら、どんな空気の中で」食べたかが重要なんだと思います。子どものころの外食が特別だったのは、きっと、家族と過ごす“穏やかな時間”がセットだったから。今の自分には、あの“時間”が足りていない気がします。
味そのものより、誰と食べたかが記憶に残る
大学時代の友人と食べた深夜のラーメン、元カノとシェアしたナポリタン、仕事で失敗したあと先輩が連れて行ってくれた焼き鳥屋。どれも、味そのものより、そこで交わされた言葉や空気感が今も鮮明に残っています。食事は人との記憶と結びついて、強く心に残るものなんだと実感します。だからこそ、一人きりで食べる日が続くと、どこか心が乾いてくる。やっぱり、「誰かと食べる」って、すごく大切なんだと思います。
「もう一度あの時間に戻れたら」と思う夜
夜、事務所でひとり書類をまとめていると、ふと「昔みたいに、誰かと何も考えずにご飯食べたいな」と思う瞬間があります。スマホをいじらず、時間も気にせず、「うまいなあ」と言い合いながら食べるだけの時間。贅沢なことではないけど、今の自分にとってはとても難しい。もう一度、あの時間に戻れたら、もっと大事にできたのになあ――そんな後悔めいた気持ちが、胸の奥にしんと広がります。
これからの“特別”をどう作るか
昔の外食は、確かに特別だった。でも、あの頃の感覚を取り戻すことはきっとできる。忙しい毎日のなかで、ほんの少しでも“食事を楽しむ”という気持ちを持てたなら、それが今の自分にとっての“特別”になるのかもしれない。完璧じゃなくてもいい。仕事帰りにひとりで行く定食屋、事務員とランチに出る日、そんな小さな瞬間の積み重ねが、また新しい“思い出の外食”になっていくのだと思います。
自分の機嫌は、自分でとる時代だから
誰かが誘ってくれなくても、誰かに甘えられなくても、自分の気持ちをちょっとだけ上げる方法は、自分で見つけなきゃいけない。そんな時代なんだと思います。だからこそ、外食も「とりあえず済ませる」じゃなくて、「今日はあそこに行ってみよう」と、自分のために選ぶ。たとえそれが牛丼でも、コンビニのイートインでも、ちゃんと“自分で選んだ”という感覚があれば、心は少しだけ満たされる気がします。
「誰かと食べる」ことの価値を見直したい
一人の時間も大事だけど、「一緒に食べる」ことで得られるものも、やっぱり大きい。会話がなくても、同じものを食べて、同じ時間を共有するだけで、ちょっとした安心感が生まれる。仕事に追われる毎日だからこそ、そういう時間を意識的に作っていきたい。誰かと食べるご飯。それは、忙しさに削られた自分を、そっと取り戻すための、ささやかなリセットの時間なんだと思っています。