静かな依頼人
午後三時を過ぎた頃、事務所のドアが静かに開いた。年配の女性が一人、緊張した面持ちで入ってきた。肩に力が入っていて、手には古びた茶封筒を握りしめている。
「この遺言書、主人が残したものなんですけど……ちょっと気になることがあって……」と、彼女は小声で言った。その声はまるで、封筒の中身に怯えているようだった。
古びた封筒と震える声
受け取った封筒は、年月を感じさせる黄ばみと手の脂が染み込んだ風合いだった。封は未開封だが、なぜか重たい。サザエさんの波平さんが怒る前に背筋を伸ばすような、そんな空気が流れた。
封筒の裏には「最終遺言書」とだけ書かれていたが、筆跡は微妙に頼りなく、まるで誰かに急かされたかのような乱れがあった。依頼人の目は、なぜか書面ではなく僕の表情ばかりを追っていた。
財産がどこかに消えた
遺言書を開封し、内容を読み進めると、確かに財産の分配について詳細に書かれている。しかし、不思議なことに、依頼人が示した生前の資産と大きく食い違っていた。
「うちにはもう少し預金があったはずなんです。土地も……」そう語る依頼人の不安は、現実味を帯びていた。書かれていない財産の存在、それはまるで怪盗キッドが一夜にして宝石を奪い去ったような感覚だった。
預金口座と相続財産目録の食い違い
確認のため銀行に照会をかけると、確かに数ヶ月前まで存在した口座が閉鎖され、残高も全て引き出された形跡がある。だが、それを示す記録は遺言書にはなかった。
目録には現金と土地のみが記載されている。そこにあったはずの有価証券も、投資信託も、一切触れられていない。「まるで、記憶から消されたみたいだな」と僕はつぶやいた。
サトウさんの冷静な指摘
「これ、たぶん……筆跡、違いますよ」背後から冷静な声がした。振り向くとサトウさんが、ルパン三世の銭形警部のような真剣な顔つきで立っていた。
「前に相談に来られた時のメモと比べてみましょうか」彼女はすぐにファイルを引っ張り出し、前回の相談記録と照合を始めた。見事な照合作業に、僕はただ感心するしかなかった。
筆跡の微妙な変化
比較すると、文字の書き方に明らかな違いがあった。とくに「財産」「贈与」といった単語の癖が、前回の相談メモと一致しない。「こっちは丸文字、でもこっちは角ばってる」とサトウさん。
それだけではない。印影にもわずかなズレが見られ、まるでスタンプが二度押しされたような滲みがあった。僕の頭の中で、ピースが少しずつはまり始めた。
親族の言い分と沈黙
相続人候補である長男に連絡を取ると、「遺言書は見ていませんが、母が決めたならそれで」と言葉を濁した。あまりにも無関心な口ぶりが、逆に不自然だった。
次男に関しては、電話越しに「自分は相続放棄します」と早々に切られた。まるで何かを恐れているかのような態度に、僕は不穏な空気を感じ取った。
長男の不自然な受取拒否
長男は、自宅訪問を申し出ても「今は忙しい」と断り続けた。それなのに、依頼人から聞いた話では、最近になって急に高級車を買い替えていたという。
収入から考えると不自然な金の動き。どこからかまとまった金が入ったとしか思えない。僕の中に、ある仮説が立ち上がった。「もしかして……」
やれやれ、、、夜は更けて
その夜、事務所で一人資料を眺めながらコーヒーを啜っていた。疲れからか、目の前の文字がサザエさんのオープニングみたいにぐるぐると回って見えた。
「やれやれ、、、これで今月の休日もゼロか」と自嘲気味に笑う。だが、笑ってる場合じゃない。あと一歩で何かがつかめそうなのだ。
昔の相談記録に残るヒント
ふと思い出し、数年前の相談記録を引っ張り出した。そこには、「貸金庫の鍵は家の仏壇に」というメモが残されていた。なぜ、それが今の遺言書にないのか。
さらに、封筒にはあったはずの紙が一枚抜けていたような跡もある。誰かが意図的に情報を削ったのではないか。全てがつながりはじめる。
封筒の真実
依頼人の許可を得て、貸金庫を開けてみた。中には、一通の手紙と古い通帳があった。通帳には、問題となっていた金額がそのまま記帳されていた。
そして手紙には「この金は家族に任せず、地域の奨学金として使ってほしい」と記されていた。まさに、これが真の遺言だった。
二重底と古い通帳
封筒には巧妙な細工が施されていた。二重底に隠された手紙は、長男が抜き取ったに違いない。だが、仏壇の鍵を信じていた故人の想いが、すべてを暴いた。
司法書士としてできること、それはこの遺志を公的に証明することだった。僕とサトウさんは、静かに準備を始めた。
すべては一筆で変わった
最終的に、手書き遺言書の筆跡が偽造されたことを証明し、貸金庫の手紙を正式な遺言として家庭裁判所に提出することになった。
遺産は本来の故人の意志に沿って処理されることになり、奨学金基金が設立される予定だ。依頼人の瞳に、わずかな安堵の光が浮かんでいた。
法と心のバランス
法は文字で判断するが、心はその裏に宿る。僕ら司法書士は、その橋渡しをする役割なのだと、改めて思い知らされた。
「やっぱり、法律って人間くさいですね」そう言ってサトウさんは事務所を出ていった。たまには笑えよな……と思いながら、僕は苦いコーヒーをもう一口すするのだった。
依頼人の残したもの
その後、依頼人から手紙が届いた。「主人の本当の気持ちを見つけてくれてありがとう」——短いけれど、心に残る言葉だった。
消えた財産は、法の力と少しの執念で戻ってきた。だけど、それ以上に大きかったのは、故人の「想い」が誰かにちゃんと伝わったということだろう。