業務の後にやる気が残らないという現実
帰宅後の部屋に無造作に置かれた洗濯物。たたまないと、とは思う。でも、重い体と心を引きずっていると、その一歩すら出ない。仕事が終わって、食事も済ませて、さあようやく自分の時間……と思った瞬間に目に入る洗濯物の山。疲れ切った身には、タオル一枚たたむのも登山のようなハードルに感じる。こんなこと、自分だけかと思っていたけど、意外と同業者も「あるある」だと聞いて少しだけ救われた。
「今日こそは洗濯物をたたもう」と思っていたのに
朝、出がけに洗濯物を干しながら、「帰ってきたらたたもう」と思っていた。実際、昼休みにもそのことをふと思い出して「今日はちゃんとやろう」と意気込んだ。でも、夕方になって予期せぬ電話が鳴り、急ぎの登記の相談が舞い込む。結局、事務所を出たのは21時。コンビニで晩ご飯を買い、テレビをつけたらもう何もしたくない。そうやって何日も洗濯物がソファーの端に積もっていくのが、現実。
終わらない業務に追われる日々
不動産登記も商業登記も、どちらも「この日までに」という期限がある。しかも、こちらの段取りとは関係ないタイミングで依頼が来る。補正対応、申請漏れのチェック、相談者の突然の訪問……予定通りに進んだ試しがない。事務員は一人だけ。結局のところ、判断も責任も自分に返ってくる。タスクが終わらず、夜に「もういいや」と思っても、頭の片隅では「あの案件どうだったかな」と心が休まらない。
依頼者対応の合間に思うこと
依頼者の中には、丁寧な方もいれば、やや理不尽な物言いをしてくる人もいる。「こっちは素人なんだから、そっちで全部やってよ」と言われたこともある。もちろんそれが仕事だし、丁寧に説明するけれど、疲れた心にその一言が深く刺さる。合間に洗濯物のことをふと思い出し、「ああ、今夜もたためないな」と思う瞬間、なんだか自分の生活が崩れていくような錯覚すら覚える。
洗濯物すらたためない日常の重み
洗濯物をたたむという行為は、日常のささやかな整え作業のはずだ。それすら後回しになるほど、今の生活は余裕がない。気づけばコンビニ弁当の容器が流しに積まれ、洗濯物はしわくちゃのまま重なり、ゴミの日を忘れてしまう。「忙しいだけで何も進んでいない」と感じる。独身だからこそ、自分しか頼れない。でも、その自分すらもう疲れ果てている。それが、この仕事をしている今のリアルだ。
忙しさは努力の証か ただの無計画か
「そんなに忙しいなら、やり方を見直せばいいじゃないか」と言われることもある。自分でもそう思う。でも、この業界、急な案件が多すぎる。登記は生もの、スピードが命、というのが頭にあるから、無理してでも対応してしまう。結果的に、計画性のない働き方になり、自分で自分の首を絞める。でも、手を抜けば依頼者に迷惑がかかる。それが頭にある限り、気力はどんどん摩耗していく。
独身ならではの逃げ場のなさ
家に帰っても、誰かがご飯を作ってくれているわけじゃない。電気も暖房も、すべて自分でつける。温かい声をかけてくれる人もいない。だから、仕事が終わった瞬間に襲ってくる孤独感が重い。洗濯物がたたまれていない現実が、誰にも咎められない代わりに、自分を責める材料になっていく。ふと「誰かに言ってほしい」と思う。「今日はもうたたまなくていいよ」と。
「自分で選んだ道」だからといって報われるとは限らない
司法書士という職業を選んだのは、自分だ。安定していて、社会的信用もある。でも、こんなにも孤独で、こんなにも自由がないとは思わなかった。日々の生活の小さな部分に余裕が持てない現実を、「自己責任」で片付けるには、もう気力が残っていない夜もある。「洗濯物をたためない」なんて、他人から見れば些細なことかもしれない。でも、それが象徴しているのは、心の限界に近いというサインなのだ。
職場と家の往復だけでは心がすり減る
朝、事務所に出て、夕方か夜に帰ってくる。それ以外に何もない日が続く。友人と会う時間もないし、趣味に打ち込む余裕もない。かつて野球部で汗を流していた頃のような、「明日が楽しみ」という気持ちが、今はどこにも見当たらない。自分を整える時間も、誰かと笑い合う時間もない生活に、少しずつ心がすり減っていく。洗濯物すらたためないのは、そういう日常の延長線にある。
同僚もいなければ、話し相手もいない
職場に同僚がいれば、雑談で気分を切り替えることもできる。でも、うちは事務員が一人。気を遣わせたくないから、業務以外の話はあまりしないようにしている。自然と話し相手はゼロになる。仕事のことで困っても、相談できる人も近くにいない。だから、余計に気持ちを抱え込んでしまう。たかが洗濯物なのに、それをたためない自分を責めてしまう悪循環に、どんどん落ち込んでいく。
元野球部のチームプレイはどこへ消えたのか
学生時代、野球部では仲間がいた。練習の合間にふざけ合い、ミスしても誰かがカバーしてくれた。でも今は、完全な個人戦だ。自分のミスは自分がかぶるし、成功しても称賛はない。声をかけてくれるベンチも、背中を叩いてくれる仲間もいない。そう考えると、野球部のあの頃がいかに幸せだったかを思い知らされる。人と支え合うことで、初めて「心の余裕」が生まれていたのだ。
試合のない人生の寂しさ
野球には明確な目標があった。「勝つ」というゴールがあった。でも今は、どこに向かっているのかすら分からないまま、毎日を繰り返している。達成感がないから、心が満たされない。だから、家に帰っても「今日もなんとなく終わった」としか思えない。そうして、また洗濯物に手を伸ばす気力がなくなる。試合のない人生は、想像以上に虚しい。
そんなときにできる小さな回復のヒント
疲れて、何もしたくない夜があってもいい。洗濯物をたためなかったからといって、自分を責める必要はない。たたむことを後回しにしたって、明日、気力が戻ったときにやればいい。まずは、自分の心が崩れないようにすることが一番だ。生活のすべてを完璧にこなす必要なんて、ないのだから。
「たたまない選択肢」を自分に許す
思い切って、「今日はたたまない」と決めるだけでも気が楽になることがある。洗濯物がぐちゃっと置かれていても、それが「生活している証」と受け止めてみる。完璧主義を少しだけ緩めると、不思議と心が軽くなる。司法書士という堅い仕事をしていると、「ちゃんとしなきゃ」と思いすぎてしまう。でも、たまには「ぐちゃぐちゃ」も、悪くない。
心の洗濯を優先する勇気
体を休めるのと同じくらい、心にも休息が必要だ。お気に入りのコーヒーを飲んだり、昔の音楽を流したり、ほんの少しのことで回復することもある。洗濯物をたたむ代わりに、自分の心を整える時間にする。それも立派な「家事」だと思う。心の洗濯を怠ると、いずれ体にも影響が出る。だからこそ、まずは自分の気持ちを大事にしてあげたい。