誰かと暮らす未来を想像した夜

誰かと暮らす未来を想像した夜

一人暮らし歴20年の夜にふと湧いた感情

静まり返った夜、電子レンジの「チン」という音だけが部屋に響いた。コンビニ弁当の湯気が立ち上るその瞬間、ふと頭に浮かんだのは「誰かと食べたら、もっと美味しいんだろうな」という言葉だった。私は一人暮らしをもう20年も続けていて、それが当たり前になっていた。しかしその夜だけは、なぜか強烈に「誰かと暮らす」というイメージが胸に刺さった。そんなに寂しいつもりはなかったのに、あの瞬間、なにかが崩れたような気がした。

誰にも言えないけど本音だった

正直に言うと「誰かと住みたい」なんて感情は、これまで口に出したことがない。どこかで「負けた気がする」とか、「一人で大丈夫」と思い込んでいた。でもその夜、味のしない唐揚げを噛みながら、自分の中の声に向き合わざるを得なかった。誰かがいる生活って、実はちょっと羨ましかったんだ。そう思ったとき、ずっと張っていた“孤独に強い司法書士”という仮面が、少しだけ剥がれた気がした。

「寂しい」と思うことは弱さではない

司法書士として働く中で、感情を表に出すことはあまりない。クライアントに安心感を与えなければいけないし、事務員にも無駄に心配をかけたくないからだ。でも本当は、誰かに「今日も疲れたね」と言ってもらいたかったりする。そんな気持ちは、弱さじゃなくて人間らしさだ。むしろ、そう思えるようになったことが、ちょっと大人になった証なのかもしれない。

元野球部的には「孤独」にも強いと思っていたけど

高校時代、野球部では「弱音を吐くな」が基本だった。グラウンドでも、寮生活でも、泣くな、言い訳するな、耐えろ、が合言葉。そんな時代を過ごしてきたから、孤独なんてなんともないと思っていた。でも、あれは「誰かが近くにいる」環境だったから耐えられたんだと今になってわかる。誰とも会話しない夜、LINEも来ない休日、それを10年以上続けてる自分は、やっぱりちょっと疲れてるんだと思う。

司法書士という仕事は誰にも見えない戦い

日々の業務に追われ、気づけば今日も日付が変わっていた。書類の山に埋もれ、法務局との往復に追われる毎日。誰かと会話する時間より、パソコンと向き合っている時間の方が圧倒的に長い。そういう日常に慣れすぎて、「誰かと暮らす」という発想すら出てこなかった。でもある時、ふと「これ、いつまで続けるんだろう」と立ち止まった。

帰宅しても事務所の空気が抜けない

自宅に帰っても、頭の中は仕事のことでいっぱい。クライアントの登記が通ったか、依頼者との次の打ち合わせ、そして明日のスケジュール。テレビをつけてみても、目は画面に向いていても心は事務所に残ったまま。そうやって気持ちを切り替えられない日が、もう何年も続いている。「オンオフの切り替えが大事」なんて言うけれど、そもそも切り替える相手がいない。

事務員の前では元気なフリをする自分

事務所にひとりだけいる事務員さん。若くて真面目で、ありがたい存在だ。でも、彼女の前ではつい“経営者の顔”をしてしまう。弱音を吐いたら心配をかけるだろうし、やる気を削いでしまうかもしれない。だから無理して元気に振る舞う。でも、それがどんどん自分の首を絞めていく。誰かに甘えられないって、思ってるよりしんどい。

「ありがとう」の一言が、正直つらいときもある

「先生、今日もありがとうございます」と言われることがある。そのたびに「いや、俺の方こそありがとう」と思うんだけど、なぜか胸が苦しくなることがある。多分、自分の中にある“認められたいけど、誰にも本音を話せない”って気持ちが反応してしまうんだと思う。そんなとき、「誰かと住んでいたら、こんな時に話せるのかな」と、ぼんやり思う。

誰かと住むってどういうことだろう

「誰かと住む」という言葉は、思った以上に重たかった。結婚を意味するようで気が引けるけれど、もっと気軽に「一緒にご飯を食べる」とか「ただ隣にいる」だけでも違う気がする。寂しいから誰かを求めてるわけじゃない。でも、日々を少し分け合える存在がいたら、もう少し肩の力を抜けるんじゃないか。そんなふうに感じる夜が、年々増えている。

一人の気楽さの裏にある「報告相手がいない日常」

一人暮らしの気楽さはたしかにある。洗濯のタイミングも自由、テレビの音量も気にしない。でも、いいことがあったとき、失敗したとき、「報告相手がいない」のがじわじわ効いてくる。誰かに「聞いてほしい」と思う気持ちは、年齢を重ねるごとに膨らんでいく。自分が話せる相手がいるだけで、きっと心の疲れも違うんだろう。

誰かと食べる晩ごはんに憧れた日

ある日、珍しく自炊をして、出来のいいカレーを作った。でも、食卓に座った瞬間、なんだか味気なくて箸が止まった。「この美味しさ、誰かに言いたい」と思った。思えば、カレーなんて本来、みんなで食べてこそ美味しい料理なのかもしれない。テレビの音だけが鳴る中で、一人黙々と食べたカレーの味は、ちょっとしょっぱかった。

一緒に暮らすことへの恐れと希望

正直、誰かと暮らすのは面倒だ。気を遣うし、自分の時間も減る。でもそれでも「いいかも」と思ったのは、一人で抱えきれない何かが溜まってきたからかもしれない。弱さを受け入れることでしか開けない扉があるとしたら、今がその時期なのかもしれない。

面倒くさい自分がバレることが怖い

昔から、他人に本当の自分を見せるのが苦手だった。面倒くさい性格だと自覚してるし、几帳面すぎたり、急に無口になったりもする。だから、誰かと暮らすとそういう面がバレて嫌われるんじゃないかと不安になる。でもたぶん、それは「自分を出せる相手」を持っていないだけなんだと思う。誰かがそれを受け止めてくれる可能性を、少しだけ信じてみたい。

それでも誰かと暮らす未来を手放せなかった理由

結婚じゃなくてもいい。恋人じゃなくてもいい。ただ「今日どうだった?」と聞いてくれる人がいて、「おかえり」と言ってくれる相手がいる。それだけで、だいぶ違う。誰かと暮らす未来を想像するようになってから、自分の中で少しずつ変化が起きている気がする。そう思えるだけで、ちょっと救われる。

今日もまた一人で湯船に浸かりながら考えたこと

湯船に浸かって目を閉じると、仕事のことばかりが浮かぶ。でも最近はその中に、「もし誰かが隣にいたら…」という想像が紛れ込むようになった。それは現実逃避かもしれない。でも、今の自分には必要な想像だとも思う。

「結婚じゃなくてもいいのかもしれない」と思えた瞬間

これまでは、「結婚しなきゃ誰かと住めない」と思っていた。でもそうじゃなくても、人とつながる形はいくらでもある。ルームシェアでも、友人との同居でも、老後の同居仲間でもいい。自分が少し楽になれる関係性を探してもいいんじゃないか。そんなふうに思えるようになったのは、大きな一歩かもしれない。

誰かと生きる形に正解なんていらない

誰かと暮らすかどうかに、正解なんてない。結婚でも同居でも、ただの友人でも、なんでもいい。自分が「今日も生きててよかった」と思えるなら、それが最善の形なんだと思う。湯船に浸かりながら、そんなことを考えた夜。まだ誰かと住む予定はないけれど、心のどこかで「誰かと暮らす未来」を温めている自分がいた。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。