消せなかった名前
登記簿に残された違和感
まだ春が名残惜しそうに枝先にしがみついている朝だった。 書類の山を前に、俺は溜息をつきながら事務所のドアを開けた。 机の上には昨日処理しきれなかった名義変更の申請書が残っている。
朝一番の来訪者
その日は少し様子が違った。 いつもより早い時間に、中年の男が神妙な顔つきでやってきたのだ。 「妻の名義を抹消したいんです。もう…亡くなって五年になります」
妻が死んでいるというのに
彼の持参した謄本には、妻の名前がしっかりと残っていた。 相続登記もされておらず、まるで彼女が今も生きているようだった。 それどころか、不動産の一部は最近“利用”された形跡まであった。
被相続人の名義が生きていた
権利部甲区の最終行には、貸借契約の痕跡があった。 いや、正確には“使用同意書”のようなものが法務局に提出されていた。 しかしそんなものは登記記録上には存在しないはずだ。
サトウさんの冷静な視線
「それ、そもそも提出者の筆跡おかしくないですか?」 サトウさんが冷たく言い放った。 彼女の指先は、俺が見落としていた添付書類の端を指していた。
やれやれ、、、また面倒な話か
筆跡鑑定を頼むには費用もかかるし、 そもそも司法書士の仕事としてそこまでやる義務はない。 だが俺は既に、登記簿の一行に、妙な引っ掛かりを覚えていた。
離婚届と死亡届のズレ
調べていくと、彼らは死別する前に離婚していた。 ただし、離婚届が受理されたのは死亡届のわずか二日後だった。 法的には婚姻状態のまま死亡したと見なされるグレーな状態だった。
旧姓に戻していない理由
さらに調査を進めると、妻は離婚後も旧姓に戻していなかった。 銀行口座や固定資産税の通知先も、すべて「旧姓のまま」だった。 まるで、誰かが意図的に名義変更を避けていたかのように。
名義変更手続の中断記録
市役所には、名義変更申請書の“途中保存”データが残っていた。 だがそれが“提出された”記録は一切なかった。 「途中で止めた人がいるんですね」と、またサトウさんが呟いた。
二重に提出された除籍謄本
奇妙だったのは、除籍謄本が“二通”提出されていたことだった。 一つは古く黄ばみ、一つは新しいコピーだったが、筆跡が微妙に違う。 もしや、同じ人物の“名義”を複数の立場で操作していたのか?
故人の名前を使った誰か
借地権を裏で回していたのは、彼の実弟だった。 登記簿の記録を読める者だけが成し得る、ある種の“手口”だった。 彼は妻の名義を盾に、黙って収益を得ていたのだ。
司法書士の一球逆転
俺は法務局に“職権での調査請求”を依頼した。 過去の添付書類の真偽を問う、極めて例外的な対応だ。 「最後に活躍するのが、俺の役目ってやつだ」と独り言を漏らす。
切り捨てられなかった愛情
依頼人の男は、結局、弟を告発しなかった。 「彼女の名前が残っていたから、俺は家を手放さずにいられた」 それは、未練と愛情の入り混じった、不思議な言葉だった。
サトウさんの塩対応と優しさ
「やっぱり最後は感情論ですか。非効率ですね」 サトウさんはいつもどおり冷たかったが、 机の上に置かれた紅茶は、いつもより少し甘かった。
真実を知るのは登記簿だけ
登記簿は無機質な紙の羅列だ。 だがその一行一行が、人の人生の軌跡そのものでもある。 今回の事件は、それを改めて教えてくれた気がする。
今日も事務所には静かな風
カーテンの隙間から、初夏の光が差し込む。 俺はいつもどおり机に向かい、次の案件に目を通す。 「やれやれ、、、次は遺産分割協議か。こっちもひと悶着ありそうだな」