聞かれなかっただけで救われる日がある
世の中にはいろんな「地雷ワード」があるけれど、自分にとって一番のそれは「結婚は?」というひと言だ。特に親戚付き合いや久々の知人との再会で投げかけられるこの質問には、何度打ち返しても心がすり減っていく。そんな中で、今日は誰からもそれを言われなかった。たったそれだけのことで、なんだか気持ちが軽くて、夕飯もいつもより美味しく感じた。平穏って、こういうことかもしれない。
家族との電話が憂鬱になる瞬間
仕事が忙しくても、家族からの電話は定期的にかかってくる。「元気にしてる?」のあとに続く「ところで結婚は?」という流れはもはや定番。母の口調には悪気がない。でもそれが逆につらい。向こうにとってはちょっとした世間話でも、こちらにとっては立派なダメージだ。受話器を置いたあとの虚無感。いつもより深くため息が出る。今日はその電話がなかった。それだけで一日が違って見えた。
親の期待と世間体の押し付け
「孫の顔が見たい」はよく聞くフレーズだ。でもそれって、親の願望を子に背負わせる言葉だと思う。しかも地方にいると、近所の目という余計なオプションまでついてくる。親が外で「まだ結婚してない」と言えば、まるで育て方が悪かったとでも言いたげな空気が流れる。そんな風に感じてしまうのも、自分にどこか負い目があるからかもしれない。だが、それを払拭する答えは簡単には出せない。
悪気がない言葉ほど刺さる
「いい人いないの?」「出会いないの?」と言われたとき、冗談半分だとしても、その裏にある本音が透けて見える気がしてしまう。こっちはこっちで、自分なりに日々をこなしているつもりなのに、まるでそれが「何もしてない」と言われているように感じてしまう。人の優しさって時に残酷だ。悪意がないからこそ反論もできず、ただ心の中に棘だけが残る。
独身司法書士という肩書きの重さ
司法書士として独立して十数年、仕事は安定してきた。でも独身というだけで「人生の完成度が低い」と言われているような場面に遭遇することがある。もちろん誰もそんなことを言葉にして責めてはこない。けれど、こちらの「何かが足りない感」は、会話の端々からじわじわと染み出してくる。独身であることは自分で選んだ道でもあるはずなのに、その重さは年を重ねるごとに増していく。
仕事はあっても人生が薄い気がするとき
仕事が忙しいのはありがたい。だが、ふと休日に何も予定がないことに気づく瞬間が寂しい。誰かと出かけるでもなく、家に帰っても誰もいない。ただ電気をつけて、テレビをつけて、また消す。その繰り返しが「俺の人生ってこれでいいのか?」という疑念を呼ぶ。結婚をしていたら何かが変わっていたのだろうか。そんなことを考えるのは、決まって夜が深くなった頃だ。
頑張っても褒められる相手がいない夜
登記が無事に終わっても、お客さんから感謝されても、それを「よかったね」と言ってくれる人がいない。仕事のやりがいはあるけれど、感情の受け皿が不足している気がする。誰かに褒められたくてやってるわけじゃないけれど、たまには「おつかれ」と言ってもらいたい。自分で自分をねぎらうのには限界がある。頑張っているのに空虚。それが独身司法書士の夜のリアルだ。
職場とコンビニと帰り道のルーティン
朝出勤して、仕事して、夜になってコンビニで夕飯を買って帰る。そんな生活を何年続けているだろう。あまりにも同じルートすぎて、街路樹の変化にも気づかなくなった。季節だけが過ぎていく中で、日々はループしている。でも今日は、ふと空を見上げたときに星がきれいだった。「結婚は?」と誰にも聞かれなかったおかげかもしれない。そんな何でもない日が、自分にとっては救いだった。