ノリが悪いってそんなにダメなことなのか
「ノリが悪い」と言われるたびに、内心グサッとくる。特にこちらが真剣な場面で冗談を振られ、笑わなかったときなど、空気が凍る。まるで自分が悪者になったかのような雰囲気に包まれる瞬間がある。だが、本当にノリが悪いことは悪なのだろうか。元野球部で、仲間とはしゃぐこともあった自分だが、仕事では自然と真面目になってしまう。司法書士としての立場や責任感が、場をわきまえることを優先させているだけなのに、と思うことが多い。
飲み会で浮くあの瞬間の居心地の悪さ
飲み会の席、誰かの冗談に場が沸いている中、自分だけ笑っていないことにふと気づく。「あれ、もしかして今、浮いてる?」そんな不安がよぎる。笑いを取りにきた話に、どう反応すれば正解なのか分からない。無理に笑えば嘘っぽくなるし、黙っていれば「ノリが悪い」と言われる。そもそも、酒の場が得意じゃない。人と一緒にいても心がどこか距離をとってしまう。学生時代はワイワイしていたのに、大人になるってこういうことなのかと、苦笑いするしかなかった。
笑ってないと指摘されるストレス
「あれ?笑ってないじゃん」——この一言がどれだけ重いか。無意識に自分を観察されてるようで、息苦しさを覚える。笑わなきゃ、とプレッシャーを感じて、かえって表情が硬くなる。相手に悪気はないのだろうが、その言葉に責められているような気がしてしまう。笑顔ってそんなに強制されるものだったか?仕事が頭から離れずに、ただ反応が遅れただけなのに、その場のノリに乗れなかったことで自分を責める夜も少なくない。
愛想笑いができない性格の不器用さ
愛想笑いというのが昔から苦手だ。本当に面白いと感じないと笑えない。その不器用さが、「ノリが悪い」と見られる原因なのかもしれない。だが、それは誠実さの裏返しでもあると思っている。嘘のない反応しかできないというのは、職業的には信頼につながる一面でもあるはずだ。だが、日常生活や人間関係では損をする場面が多い。自分の正直さが、逆に人と壁を作ってしまっている気がして、時折切なくなる。
ノリがいい人が有利なこの時代
今の時代、「愛嬌がある」「すぐ打ち解けられる」といった能力がやたらと評価される。SNSでもリアクション上手な人が人気を集めていて、寡黙な人間はどこか取り残されているような気分になる。司法書士の仕事にも、対人スキルが求められる場面が増えてきた。オンラインでの面談や、説明動画など、明るさが求められる。だが、根が静かな性格の自分にとって、無理して明るく振る舞うことは、正直きつい。時代についていけてない気がする。
元野球部的ノリはもう時代遅れ?
かつての自分は、いわゆる「体育会系ノリ」でなんとかなっていた。声を出せば盛り上がり、冗談も「勢い」で通じていた。でも今、それを出すと「うるさい」「空気読んで」と返される。あの頃のノリはもう通じないのか。むしろ、落ち着いた対応が求められる場面では、昔の自分のままじゃ通用しない。とはいえ、新しいノリに無理に合わせようとすると、自分らしさがどんどん削られていく気もして、なんだか空しい。
静かにしている=悪、という誤解
場を盛り上げないと「空気が読めない」と思われる。でも、黙っているからといって何も考えていないわけじゃない。むしろ、真剣に状況を見ていたり、どう反応すべきか考えていたりするだけなのだ。それでも周囲からは「ノリが悪い」というレッテルを貼られがちだ。特に初対面の人には誤解されやすく、それがまた自己嫌悪を生む。話すタイミングが遅れただけで、人間性まで否定されるような感じがするのが、辛い。
ノリが悪いと仕事でも言われる現実
「真面目すぎる」とか「もうちょっと柔らかく」といったフィードバックを受けることがある。司法書士の仕事は堅い分、少しでも緊張を和らげるようにという配慮なのだろう。だが、もともと社交的でない性格の自分にとって、それはなかなかのハードルだ。笑顔で迎えて、雑談して…とやっているうちに、本来の業務がどんどん後回しになる。人間関係を円滑にする努力が、時に自分をすり減らす原因にもなっている。
法務局の職員との温度差
法務局とのやりとりでも、あちらが軽口を叩いてくることがある。「先生ももうちょっと冗談通じると助かるんだけどな」なんて言われると、心の中で「それはこっちのセリフだ」と思ってしまう。公務員同士の和気あいあいとした空気の中で、こっちは常にピリピリとした責任を背負っている。何か一つのミスが大きなトラブルに繋がるから、慎重にならざるを得ない。それでも、堅苦しいと思われてしまうのが、なんとも理不尽に感じる。
冗談が通じないと思われる悔しさ
たまにこっちからも軽い冗談を言うが、うまく伝わらずスルーされる。逆に「意外ですね、そんなこと言うんだ」と驚かれることもある。自分だって、笑いたいし、打ち解けたいと思っている。でも、それが自然にできないのが歯がゆい。そういう人間関係のすれ違いが積み重なって、ますます人と距離を置くようになってしまう。悪循環だと分かっていても、どうしても踏み出せない時がある。
依頼人からの距離感が縮まらない
初めての依頼人との面談。どこか他人行儀な雰囲気が漂うのは、自分の口調や表情の硬さからかもしれない。雑談を交えようと思っても、つい事務的な説明ばかりになってしまう。「もっと親しみやすくなれれば」と思いつつ、変に馴れ馴れしくするのも違う気がする。距離を縮めたいが、不自然なことはしたくない。そのジレンマの中で、日々もがいている。
事務員とのやりとりでの気まずさ
うちの事務員は気さくで、たまに冗談も言ってくれる。ただ、自分はそれにどう返していいか分からない時がある。真面目に返してしまって空気が止まるとき、「またやってしまった」と反省する。気まずさを感じつつ、表情には出さないようにしているが、内心は落ち込んでいる。「ノリよく返せたら、もっと事務所の雰囲気も良くなるのに」と思いつつ、なかなか変われない自分にイライラする。
和ませようとして逆に滑る
ある日、空気を和ませようと軽いジョークを言った。が、返ってきたのは微妙な沈黙。「え…冗談だったんですか?」と聞かれた時、顔から火が出そうだった。自分にとっては勇気を出した一言が、場を冷やしてしまうとは皮肉なものだ。それ以来、「無理してボケるのはやめよう」と心に決めた。やっぱり、向いてないことは無理しない方がいいのかもしれない。
沈黙が続くと居たたまれない
雑談が苦手だと、ちょっとした沈黙が異様に長く感じる。話題が尽きた瞬間、すぐにパソコンに目を落としてしまうのは癖になっている。沈黙の時間も相手との信頼があれば心地よいものになるのだろうが、そうなるには時間がかかる。その「時間」がうまく作れないから、関係も浅いままで終わってしまうことが多い。もっと自然に雑談できる自分だったら…と、時折思う。
ノリが悪くても得たものがある
ただ、ノリが悪いことで得たものもある。それは「深く考える力」だ。軽々しくリアクションしないからこそ、一つ一つを丁寧に考える癖がついた。これは司法書士として大事な資質だと思っている。ノリが悪くても、それは一種のスタンスなのだと、最近ようやく受け入れられるようになってきた。無理に変わらずとも、自分なりの信頼を築ければいい。そう思えるようになっただけでも、少しは成長した気がする。
深く考える癖が強みになることもある
どんな言葉を使うか、どこまで踏み込むか——慎重な姿勢は、仕事ではむしろ強みになることがある。依頼人から「落ち着いて話してくれて安心した」と言われたとき、このスタイルも悪くないと思えた。リアクションは薄いかもしれないが、その分、丁寧な説明や対応で信頼を得られる。派手な印象は残らないが、じんわりと信用されるタイプだってあっていい。
本音を語れる関係を築ける喜び
ノリでつながる関係も悪くないが、やっぱり本音を語れる関係にこそ、深さを感じる。そんな関係は数少ないけれど、長く続く。無理に明るく取り繕わずに、じっくりと時間をかけて築いた信頼関係は、何にも代えがたい。ノリが悪いと言われても、自分のままでいられる人間関係を大切にしたい。そう思えるようになったのは、大人になってからの気づきかもしれない。
無理に合わせないという選択の価値
周囲に無理して合わせようとするたびに、自分がどこか削れていく感覚があった。だが、ノリが悪いままでも、きちんと仕事をして、信頼を得られる道はある。無理に笑わなくても、無理に盛り上げなくても、真摯に対応すれば伝わるものはある。そう気づいてから、自分のペースで人と関わることに自信が持てるようになった。ノリが悪いのは短所ではなく、ただの特徴。その視点に立てたとき、少しだけ自分が好きになれた。