いい人で終わる人生に意味はあるのか

いい人で終わる人生に意味はあるのか

なぜか好かれるのに選ばれない

学生時代から「優しそうだね」「話しやすい」と言われることは多かった。それは社会に出ても変わらず、相談相手や愚痴を聞く相手としては重宝される。でも、肝心な「一緒にいたい人」「頼れる存在」としては選ばれない。地方の小さな司法書士事務所で、毎日誰かの話を聞いてばかりいるうちに、自分の気持ちを話す機会はどんどん減っていった。誰かに選ばれたいと思う気持ちすら、最近はもう薄れてきている。

「優しそうだよね」で終わる会話

例えば、久しぶりに会った友人との飲み会。結婚や子どもの話題が飛び交う中で、ふと「お前って、昔から優しそうだったよな」と笑われる。褒め言葉に聞こえなくもないけれど、それ以上踏み込まれることはない。「紹介しようか?」の一言もないまま、その場は流れていく。いい人止まりとは、つまり“無害だけど無視できる存在”なのだろうか。心のどこかで寂しさと悔しさが混じる。

紹介されるのは相談相手ばかり

女性の友人から紹介されるのは、恋愛対象ではなく「困ってる子がいるんだけど、相談乗ってあげてくれない?」という依頼ばかり。相続のこと、家族とのトラブル、仕事の悩み……なんで俺が無料カウンセリング窓口みたいになってるんだ。司法書士としての知識を求められるのはありがたい。でも、人として「この人と一緒にいたい」とは思われていないような気がしてならない。

恋愛対象にはならないらしい

「いい人だけど…」という前置きに続く「タイプじゃない」という言葉。もう何回聞いたかわからない。高校時代、野球部で真面目に汗を流していた頃から、ずっとそうだった。誰かを傷つけたくないから優しくして、気遣いを忘れずに過ごしてきた。でも、その優しさが魅力にならないというのなら、俺は何を大切にしてきたんだろう。ふと、自己否定の波が襲ってくる。

仕事でも優しさは評価されにくい

司法書士という職業柄、依頼者とのやり取りでは穏やかさが求められる。でも、それが裏目に出ることもある。「頼みやすい人」=「断らない人」として都合よく扱われる場面も少なくない。無理な納期、急な対応、感情的なクレーム…。厳しく線を引けない自分に、時折腹が立つ。でも、冷たくあしらえない性格も、また自分なのだ。

「怒らない人」=「頼まれやすい人」

トラブル対応で何度も休日出勤したことがある。「すみません、先生なら話聞いてくれると思って…」と頭を下げられれば、つい引き受けてしまう。事務員にも「そこまでしなくていいんじゃ」と言われるが、どうしても断れない。気がつけば、週末も夜間も、誰かの都合に振り回されている。それでも「怒らないね」と言われると、どこか嬉しくなってしまう自分がいる。

結局、雑用係が似合ってしまう

「先生、ちょっとこれもお願いできますか?」という声が、いつの間にか日常になった。司法書士としての業務よりも、役所への使いっ走りや書類コピーの依頼が増えることもある。事務員にやらせればいいものを、頼まれたら断れない。たぶん、「この人ならやってくれる」と思われているのだろう。評価されることより、便利屋になっている現実が悲しい。

押しが強い人には勝てない現実

時に理不尽な要求をしてくる依頼人にも、言い返せないことがある。強く言われると、「まあ仕方ないか」と引いてしまう。若い頃、押しの強い上司に何も言えなかった名残かもしれない。自分の意見を主張するよりも、相手の機嫌を取る方が楽なのだ。それが、いい人止まりの根本的な原因なのかもしれない。

元野球部の上下関係が抜けきれない

高校時代、野球部では上下関係が絶対だった。先輩には逆らえない、黙って指示に従う。それが当然だと思っていた。その癖が今も残っていて、依頼人にも後輩にも「強く出る」ことができない。正義感よりも、空気を読む力が先に働いてしまう。元野球部の自分を否定するわけではないが、時代が変わっても性格はなかなか変えられない。

つい我慢してしまう性格

ミスがあっても怒鳴ることはない。疲れていても「大丈夫です」と答えてしまう。誰かのミスをカバーすることも日常茶飯事だ。昔から「我慢強い」と言われてきたが、それが本当に美徳なのかは疑問だ。自分を犠牲にしてまで維持する“優しさ”は、時として自分を追い込む武器になる。

声を荒げるより先に自分が折れる

本当は言いたいこともある。ミスが続いたとき、書類のミスで余計な手間が増えたとき、怒りが込み上げることもある。でも、声を荒げたあとにくる自己嫌悪が怖くて、結局自分が折れる。怒ることより、自分を責めることの方がクセになっているのかもしれない。野球部で培った“忍耐”が、今では鎖のように感じることもある。

「自分さえ我慢すれば」と思ってしまう

トラブルが起きても、「自分さえ我慢すれば、みんながうまくいく」と思ってしまう。でもその結果、体調を崩したり、仕事が回らなくなったりすることもある。誰かに優しくする前に、自分を守ることを覚えなければ、本当に潰れてしまう。そう頭ではわかっていても、心がついていかない。だから、今日もまた「まあ、いいか」で終わってしまう。

独身司法書士が抱える孤独

朝から晩まで仕事に追われる日々。帰宅しても部屋は静まり返っている。疲れた体をソファに沈めると、ふと「誰かと一緒にいたいな」と思う。でも、その“誰か”がいない現実が、日ごとに重くのしかかる。事務所では「先生」と呼ばれ、責任ある立場を担っているけれど、家に帰ればただの独身男だ。

夜に誰かとご飯を食べたくなる瞬間

コンビニ弁当を温める音が部屋に響くたび、誰かと食卓を囲みたいという気持ちが湧いてくる。別に豪華な料理じゃなくていい。ただ、一日の終わりに「お疲れさま」と言ってくれる存在がいてくれたら、それだけで救われる気がする。でも、現実には誰もいない。誰かの相談には乗れても、自分の孤独には向き合えないのが情けない。

頼れる人がいないと気づく時

風邪をひいて寝込んだ夜、インフルエンザで布団から出られなかった週末、ふと「誰にも連絡できない」と気づいた。親は遠くに住んでいるし、友達とも疎遠だ。仕事では人と話しているのに、プライベートでは誰とも繋がっていない。頼られることはあっても、頼れる人がいないというのは、こんなにも寂しいものなのか。

それでも「いい人」でありたい自分

孤独を感じても、それでも誰かに優しくしたいと思ってしまう。自分が辛いからこそ、誰かの支えになりたい。そう思うのは悪いことじゃない。でも、その気持ちに甘えてくる人ばかりじゃ、やっぱり疲れてしまう。「いい人」でいたい気持ちと、「都合のいい人」になりたくない気持ち。その間で揺れ続けている。

それでも変われなかった過去とこれから

これまで「いい人」をやめようと思ったことは何度もある。でも、根が優しいと言われて育った自分には、それが難しい。じゃあ、このまま孤独に優しいままで生きていくしかないのか――そう考えると、やっぱり少しだけ虚しくなる。だけど、どこかで誰かが「先生のおかげです」と言ってくれる限り、少しは救われている気がする。

いい人でいたから助かったこともある

思い返せば、「優しくしてくれてありがとう」と涙ぐまれたこともあった。あの時、少しだけ救われた表情を見て、「自分のやり方は間違ってなかった」と感じた。すぐには報われなくても、誰かの役に立てたのなら、それでいいのかもしれない。そう自分に言い聞かせる夜もある。

それでも一人は正直しんどい

どれだけ人に優しくしても、自分の部屋に帰れば誰もいない。その事実が重くのしかかる。誰かに必要とされても、「一緒にいたい」とは言ってもらえない現実。優しさの裏側にある孤独は、なかなか埋まらない。強がらずに言うなら、やっぱり、一人はしんどいのだ。

優しさを強さに変えるにはどうすれば

「いい人」で終わらないためには、優しさに“芯”を持たなければいけないのだろう。自分を犠牲にするのではなく、自分も大事にしながら優しくする。それが本当の意味での“強さ”だと思う。まだその境地にはたどり着けていないけれど、少しずつでも歩いていけたらいい。たとえ誰にも褒められなくても、自分だけは自分を認めてあげられるように。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。