誰にも邪魔されないはずの空間が少し寒い
ひとり事務所の何が良いかって、誰にも指図されないし、好きなように動けることだ。コーヒーのタイミングも自由。好きな音楽をかけても誰にも文句は言われない。だけど、ふと我に返ったとき、その「自由」が寂しさに変わる。電話も鳴らず、ドアのベルも鳴らない日、部屋の空気だけがやたらと冷たく感じることがある。誰かと雑談する時間すらない日々が続くと、「このままで大丈夫か?」という漠然とした不安に襲われる。
朝の静けさが心に染みる
朝、事務所に来てドアを開けると、静寂が広がる。誰かの「おはよう」があるわけでもなく、冷たい空気と書類の匂いだけが迎えてくれる。パソコンを立ち上げ、メールを確認しても、営業メールばかりで、心が弾むことはない。元野球部の自分が、声出して体動かしてたあの頃と比べて、今の自分はどうだろう。朝の声出しが恋しくなるときがある。「孤独」とは、大げさな言葉のようで、実はこういう日常にひっそりと忍び込んでいるのかもしれない。
話し相手がいないという現実
事務員さんは一人いてくれて、本当に助かっている。ただ、その人も一日中忙しく、自分が抱えているモヤモヤを話す相手にはなかなかなれない。そもそも、経営者として弱音を吐くのもどうかと思ってしまう。昔の同期と飲みに行く機会も減り、同業者と会うのも年に数回の会合くらい。スマホの履歴を見ても、最近電話した相手はクライアントばかりで、気軽に話せる相手が減っている現実に気づくと、何とも言えない孤独感に襲われる。
独り言だけが増えていく毎日
誰にも話さない時間が長くなると、独り言が増える。「さて、やるか…」とか「うーん、これはどうしようか」なんて声に出すのが癖になってきた。気づけば、机に向かって一人芝居のようなやりとりをしている。最初は変に思っていたけど、今ではそれが日常だ。誰にも見られてないからこそできることではあるけれど、「これ、ヤバいな」と自分で笑ってしまう瞬間もある。笑う相手もいないけど。
自由なはずなのにどこか不自由
ひとり事務所って自由な働き方の象徴のように言われるけど、実は不自由な面も多い。自分がやらなきゃ誰もやってくれない。誰かに頼めることが限られているから、結局、自分の「自由」は自分の責任と隣り合わせになっている。休もうと思えば休めるけれど、その分のしわ寄せは全部自分に返ってくる。「自由」って聞こえはいいけど、実態は「選択肢の多すぎる重荷」にもなる。
スケジュールは全部自分次第
自分の裁量で動けるのは間違いない。だけど、予定を立てても急な依頼や役所対応で全て崩れる日も多い。顧客の都合に振り回されていると、「これって本当に自由か?」と疑問に思うことも。たとえば休日に友人と会う約束をしていても、登記の急ぎ案件が入ると断らざるを得ない。結局「自由」は予定が白紙であることとイコールではなく、「責任の上に成り立つもの」だと痛感する。
休んでも誰にも責められないのに気が休まらない
休んでも、誰かに怒られることはない。だけど、心から休めるかと言われると、それはまた別問題だ。結局、休んだ日は罪悪感が付きまとう。「あの書類、大丈夫だったかな」「依頼者から連絡来てないかな」とスマホを何度も見てしまう。仕事を手放しても、頭の中から離れないのがこの仕事のつらいところだ。自由を感じる暇もなく、心だけがずっと緊張状態にある。
忙しさに追われて感じる孤立感
一人で仕事を回すというのは、想像以上に消耗する。目の前の案件をこなしても、次から次へと新しい依頼が来る。ありがたい反面、気を抜くとすぐに潰されそうになる。業務量に圧倒されて、日々の雑務にも追われていると、自分が何を目指していたのか分からなくなる瞬間がある。
電話対応に追われる昼休み
せめて昼休みくらいは…と思っても、電話は鳴る。メールの通知も止まらない。冷めたコンビニ弁当を片手に、電話口で「はい、登記の件ですね」と対応している自分をふと俯瞰する。仕事熱心だと思われているかもしれないけど、実際は「休む勇気」が持てないだけだ。もっと要領よくやればいいのに、と思うけれど、性格が邪魔をする。
事務員さんのありがたみと申し訳なさ
一人雇っている事務員さんには本当に助けられている。ただ、繁忙期になると、彼女にも無理をさせてしまっているのではと不安になる。かといって増員できるほど余裕があるわけでもない。お互いギリギリでやりくりしている状況の中で、感謝と申し訳なさが交錯する。自分の理想と現実の狭間で、うまく言葉にできない思いを抱えている。
すべてを背負うプレッシャー
最終的に責任を取るのは自分。それが経営者であり、司法書士という立場だと理解しているけれど、プレッシャーは日々重くのしかかる。ミスが許されない世界で、誰もチェックしてくれない環境は、正直つらい。誰かに「大丈夫」と言ってほしい日もあるけれど、そういう声はどこからも聞こえてこない。
モテないことも全部この働き方のせいにしてしまう
彼女がいない理由を仕事のせいにするのは、逃げなのかもしれない。でも実際、出会いもなければ、時間もない。マッチングアプリも続かず、気づけば「このまま一人で人生終えるのか?」と不安になる。昔の友達が家庭を持ち、子どもの話をするたびに、羨ましさと寂しさが入り混じった感情が押し寄せる。
仕事を言い訳にしたまま歳をとる
気づけばもう45歳。あっという間だった。若い頃は「まだ間に合う」と思っていたけれど、今は「もう遅いのかも」と感じることもある。仕事が楽しくないわけではないけれど、それだけじゃ埋まらない何かがあるのは確か。忙しさにかまけて、人間関係を疎かにしてきたツケが、今じわじわ効いてきている。
寂しさを埋めるのは結局コンビニ弁当とテレビ
夜、仕事を終えてコンビニで弁当を買って、家でテレビをつける。それが日常。刺激のない毎日が、じわじわと心を削っていく。健康にも良くないと分かっていても、料理する気力もなく、ただルーティンをこなすように生きている。「これでいいのか?」と問いかけても、答えは出ない。
それでも誰かの役に立っている実感
それでも、この仕事を続けていられるのは、やっぱり「ありがとう」の一言があるからだ。面倒な相続手続きに悩んでいた高齢のご夫婦から、「助かりました」と深々と頭を下げられた時、自分が必要とされている実感を持てた。その瞬間だけは、孤独も疲れも吹き飛ぶ。
「ありがとう」が支えになる瞬間
自分のやった仕事が、誰かの人生に確実に影響している。その事実は大きい。大手にはできない、顔の見える対応。小さな町の司法書士だからこそできることがある。派手じゃないし、儲かりもしないけど、人の役に立っているという自負がある。だから、やめられない。
過去の自分からの励ましを想像してみる
ふと、若い頃の自分を思い出す。「司法書士になりたい」と思ってがむしゃらに勉強していたあの頃の自分に、「ちゃんとやってるよ」と伝えたい気持ちになる。今の自分が誰かの希望になっているなら、それだけで救われる気がする。
元野球部としての粘りが今も自分を支えている
野球部時代、きつい練習も、仲間と励まし合って乗り越えた。今は一人だけど、その頃培った粘りと根性が、自分の背中を押している。ミスしても、失敗しても、立ち上がる力だけは残っている。孤独も自由も引き受けて、それでも前に進もうと思えるのは、その頃の自分のおかげかもしれない。