朝からため息が止まらない日もある
司法書士をしていると、朝起きた瞬間から「ああ、もう今日は終わったようなもんだ」と思う日がある。予定はギッシリ、電話は鳴りっぱなし、書類の山は崩れそう。それでもやるしかない。この年齢になっても「しんどい」と言えない現実に、ただただ疲れる。ふと、「誰かに『大丈夫?』って言ってもらえたら、それだけで救われるのに」と思ってしまう。だれにも言えない心の奥底の弱さを、誰かにすくい取ってほしい。ただ、それだけなんだ。
依頼はあるのに心がついてこない
開業してから十数年、なんとかやってこれた。紹介も増えて、案件も切れない。それはありがたい。でも最近は、依頼を受けても心が動かない。「これ、前にもやったな」「また同じようなトラブルか」そんなふうに思ってしまうことがある。成長していないわけじゃない。けど、慣れが感情を鈍らせている。野球で言えば、勝ってもガッツポーズが出ない。そんな感覚。やりがいが見えなくなると、心も一緒にすり減っていく。
とにかくこなすしかないという思考停止
考える余裕もなく、スケジュールに従って動くだけの毎日。まるで「仕事処理マシーン」だ。ある日、事務所でふと我に返ったとき、クライアントの話を一言も覚えていなかったことがあった。これはマズいと思った。けど、また次の電話が鳴って、また次の案件がくる。とにかくこなす。考えるな。動け。それが当たり前になっている。けど、そんな状態を続けていたら、いつか本当に壊れる気がする。
事務員に弱音を吐けない自分がしんどい
うちの事務員はよく働く。真面目で気が利く。でも、自分が疲れているとか、もう限界だとか、そんなことは言えない。「先生、大丈夫ですか?」って聞かれたことなんて一度もない。たぶん、気を遣ってるんだろうけど、こっちはもう少しだけでいいから、心配してほしいだけなんだ。元気そうに見せるのが仕事。わかってるけど、こっちだって人間だ。たまには誰かに甘えたい。それが、こんなに難しいなんて。
「大丈夫ですか」の一言に救われることがある
ある日、コンビニのレジで「体調、大丈夫ですか?」とレジのおばちゃんに言われた。え? と思って顔を上げると、「最近、顔色が悪くて…」と心配そうに言ってくれた。涙が出そうになった。「大丈夫」って、こんなに人を救う言葉なんだとそのとき知った。家族でも友人でもなく、赤の他人のその一言に、心がふっと軽くなった。ふとした瞬間の優しさが、人を生かすこともあるんだと実感した。
コンビニ店員の何気ない声かけが刺さった話
あの日は、補正が3件重なってボロボロだった。昼食を買いに寄ったコンビニで、レジのおばちゃんに「いつもお疲れさまです」って言われた。特別な言葉じゃない。でも、それが沁みた。誰かが自分を見てくれているという感覚。それだけで、ちょっとだけ「頑張ってもいいか」と思えた。仕事の中で、クライアントにかける一言も、こんなふうに届いていたらいいのになと思った。
家族がいないことのリアルな重み
独身で、実家とも疎遠。帰る家はあるけれど、迎えてくれる誰かはいない。仕事で疲れて帰っても、部屋は静まり返っている。誰にも愚痴をこぼせない、誰にも「今日こんなことがあってさ」と言えない。独身の自由はあるけど、孤独は深い。たまにテレビで「家族の支えがあって…」とか聞くと、そっとチャンネルを変える。今さら家族が欲しいなんて言えないけど、やっぱり人のぬくもりに飢えている。
孤独とプレッシャーの狭間で生きている
司法書士という仕事は、信頼と責任でできている。プレッシャーは常にあるし、それを誰かと分かち合うことも少ない。孤独だ。でも、その孤独に慣れてしまうと、自分の感情すら麻痺してくる。ひとりで決断して、ひとりで処理して、ひとりで失敗を抱える。そんな働き方を続けていると、どんどん人間らしさが削がれていく。元気そうに見えるかもしれないけど、本当はボロボロなんだ。
司法書士の看板の重さに押しつぶされそう
「先生」と呼ばれることが当たり前になっているけど、自分ではそんな立派な人間だと思っていない。ただ、そう呼ばれるたびに、自分を偽らなければならない気がする。弱音を吐かず、常に冷静で、頼りがいのあるふりをし続ける。だけど、それがだんだん苦しくなる。人はそんなに強くない。たまには「誰か助けてくれ」と叫びたくなる。けど、そんなことを言える場所がない。
元野球部でもメンタルは折れる
高校の頃は、坊主頭で白球を追っていた。どれだけ怒鳴られても耐えていた。だけど、社会に出てからのしんどさは、また別物だ。ミスひとつで責任を問われ、感情を抑え、結果を出し続けなければならない。あの頃の厳しさは、今の精神的な孤独には勝てなかった。「昔は根性あったのにな」と自分に呆れる日もある。メンタルって、筋肉じゃどうにもならない。
「ひとり親」案件で胸が痛んだあの日
ある日、離婚後に子どもを育てているシングルマザーの相談を受けた。話を聞いているうちに、自分よりよほどしっかりしていて、強く見えた。でも、ふと「ひとりって、本当にしんどいですよね」と漏らした彼女の言葉に、思わず黙ってしまった。司法書士としての立場を超えて、ただ同じ「ひとり」として共感していた自分がいた。心の奥に残る、忘れられない面談だった。
相談相手がいないことの致命傷
経営のこと、将来のこと、人間関係。誰かに相談したいと思っても、誰もいない。専門職の悩みは、専門職にしかわからない。でも、近くにそんな仲間はいない。SNSでつながっていても、表面だけで、深いところまで話せる人はいない。「飲みに行こう」と誘える友人も減った。時間はあるのに、心を開ける相手がいないことが、一番堪える。
友達付き合いが年々減っていく現実
40を超えてから、連絡がくるのは仕事関係ばかりになった。学生時代の仲間も、家庭を持ち、別世界の住人のようだ。「また会おうな」と言いながら、もう何年も会っていない。誘う気力もないし、誘われない現実もある。気づけば、ひとりで晩酌しながら、昔の写真を眺めるようになった。寂しいと言うと負けな気がして、黙っている。
他人の人生に寄り添いながら自分を置き去りにしている
登記も相続も、結局は他人の人生の節目に関わる仕事だ。人の人生に真剣に向き合うことは嫌いじゃない。でも、自分の人生はどうだろう。気づけば、仕事ばかりで何年も過ぎている。誰かのために動いているうちに、自分を見失っている気がする。それでもやめられないのは、「ありがとう」の一言が、たまらなく嬉しいからかもしれない。
それでも机に向かう理由
正直、辞めたいと思う日もある。でも、なぜかこの仕事から離れられない。書類に囲まれ、静かな事務所でひとり、今日もキーボードを叩いている。たった一人でも、「先生がいて助かりました」と言ってくれる人がいる限り、自分はここにいてもいいのかもしれない。誰かに「大丈夫?」と聞いてもらえないなら、自分が誰かにそう言える人間でいたいと思う。