雨の午後に訪れた依頼人
午後三時過ぎ、事務所のガラス戸に微かなノックの音が響いた。外はしとしとと秋雨が降り続き、まるで誰かの涙を模倣しているかのようだった。戸口に立っていたのは、スーツの袖を雨に濡らした中年の男性だった。
彼は静かに一礼すると、封筒を取り出して言った。「亡くなった妻から、あなたにこれを託していたようです」。見覚えのある筆跡が、あまりにも突然の再会だった。
旧姓で差し出された封書
封筒の宛名は、彼女の旧姓で書かれていた。それだけで、胸の奥がざわついた。封筒は年月を経て黄ばんでおり、明らかに最近のものではない。
「亡くなる前に整理していたアルバムの裏に、これが貼りつけてあったんです」と依頼人は語る。彼は戸惑いながらも、自分では開けることができなかったらしい。
亡き妻の筆跡に胸騒ぎ
封を切る手が震えた。そこにあったのは、恋文のようでありながら遺言書のようでもある、不思議な文書だった。淡く、優しく、それでいて何かを伏せているような文体。
「私が死んだあと、この手紙をシンドウさんに届けて」とだけ書き添えられていた。何を意味しているのか、読み進めるほどに謎が深まっていった。
恋文か遺言書か
「恋文といえばカツオがサザエに間違えて渡したあの回を思い出しますね」と、私が軽口を叩くと、サトウさんは冷ややかにこちらを見てきた。「今それ言います?」
冗談を言わなければ、何かが崩れそうだった。彼女の文面は優しい思い出と共に、ある土地の話へと移っていった。どうやら、遺言に関わる「不動産」に関する話だった。
サトウさんの冷静な視点
「これ、正式な遺言書と見なすには要件が微妙ですね」とサトウさんが淡々と指摘する。確かに、日付はあるが署名がない。しかも、明らかに想いが強すぎる。
私はため息をつきながら封筒を置いた。「やれやれ、、、まさか、こんな形で過去と向き合うことになるとはな」。サトウさんは無言でコーヒーを淹れてくれた。
開封された封筒の違和感
ふと気づく。封筒の裏に、細い紙を剥がしたような痕跡がある。まるで誰かが二重に封をしていたような――。私はルパン三世の偽手紙トリックを思い出した。
「この封筒、誰かが途中で開けてるな」。言った瞬間、依頼人の表情が一瞬だけ凍ったように見えた。嫌な予感が背筋を走る。
過去を語る文字
文面は土地の話から、昔一緒に通った大学時代の出来事に及んでいた。誰も知らないはずの話が書かれていた。私しか知らないはずの。
となると、彼女は私の記憶に頼って書いたのではなく、「私にだけ向けて」残していたことになる。その意味は重い。
時系列が狂う手紙
不思議だったのは、最後の一文。「あなたが読んでいる今、私はまだ生きていますように」と書かれていたのだ。どういうことだ?
日付は三年前、彼女の死亡時刻と一致している。だがこの文面は、まるでそれ以降も生きる希望を記していた。何かが食い違っている。
遺言の日付と齟齬の謎
正式な遺言書として法務局に保管されていたはずの文書の日付は、文中の手紙の日付よりも「一ヶ月前」になっていた。つまり、あとから書かれた手紙がある。
「その文書が本当に彼女の最期の意志なのか、それとも誰かの手が加わったのか…」私たちはこの小さなズレに、事件の核心があるとにらんだ。
書かれていない第三者
手紙の中に、不自然に空いた一行があった。まるで、そこに名前があったかのような空欄。紙の色も微妙に違う。上から修正されたのか?
まさか、誰かがこの文書を書き換えた?それとも、最初から名前を書かせなかった?いずれにしても、ここにもう一人の登場人物が隠されている。
もう一人の登場人物の影
「彼女には妹さんがいたらしいですね」と、サトウさんが古い戸籍を引っ張り出してくる。そこに記された名前は、封筒の宛先と一字違いだった。
なぜ妹の名前が消されたのか?相続権、遺留分、感情のもつれ、愛憎。あらゆる可能性が交錯する。だが、もう一通の封筒がすべてをひっくり返した。
そして封筒がもう一通
依頼人が帰ったあと、事務所のポストに無記名の封筒が投函されていた。そこには、件の手紙とほぼ同じ文体の、だが明らかに「妹」宛ての手紙が入っていた。
それは、彼女が同時に二人へ向けて思いを綴った証だった。そこには「法ではなく、心で処理してくれることを願っています」と記されていた。
二重底の金庫の秘密
結局、遺言は法的には不完全だったが、彼女の「想い」を元に不動産の名義変更が進められた。鍵は依頼人が持っていた金庫の二重底に隠されていた。
「人の想いってやつは、どんな書面よりも厄介ですね」と私が言うと、サトウさんは軽く笑った。「それ、名言ですか?」
恋と嘘と法律の狭間で
あの手紙が恋文であったのか、遺言であったのか、結局は誰にもわからなかった。だが、残された人たちはそれぞれの想いを整理し、前に進み始めていた。
書面が法を決める。でも、書面がすべてを決めるわけじゃない。シンドウ司法書士として、またひとつ経験を積んだ気がする。
登記簿に刻まれた決断
最終的に、不動産の登記は妹の名義になった。依頼人も納得し、涙を拭いながら帰っていった。書かれなかった名前は、法で守られた。
「やれやれ、、、」私はポケットからボールペンを取り出し、登記の申請書をゆっくりと書き始めた。雨は止んでいた。
司法書士としての最期の仕事
それが彼女からの最後の依頼だった。封筒に眠っていたのは愛であり、嘘であり、そしてささやかな希望だったのかもしれない。
私は封筒をそっと引き出しにしまい、深く椅子にもたれた。まるで、サザエさんの最終回を見終えたような、妙な寂しさがあった。
封筒に込められた本当の気持ち
人は書面に託す。言葉に託す。そして時々、沈黙にすら託す。今回の件でそれを痛感した。サトウさんは黙って、お茶を出してくれた。
「シンドウさん、また一歩、大人になりましたね」――塩対応のその一言が、妙に胸に沁みた。私は頷き、次の依頼に目を通すことにした。