また明日がない働き方をしていると気づいた日

また明日がない働き方をしていると気づいた日

気づいたら毎日が締切だった

昔は「また明日やればいいか」が通じた。高校野球の練習でヘトヘトになっても、次の日にはグラウンドで再挑戦できた。でも司法書士の仕事は違う。今日処理できなかった登記、放置した相談、片付かない書類の山――どれも「また明日」では済まない現実がある。小さな積み残しが翌日を圧迫し、週末に持ち越され、結局は自分の首を絞める。ふと気づくと、朝目覚めた瞬間からすでに追われている。休日の前夜も、心のどこかが落ち着かない。

昨日も今日も終わってない

気がつけば、ずっと「今日の続き」を生きている気がする。昨日やり残したメールの返信、出しそびれた書類、連絡し損ねたお客様。どれも地味で小さなことだけど、積もればプレッシャーだ。カレンダーは日々を進めてくれるけど、自分の中のタスクはどんどん遅れていく。まるで無限にループするゲームみたいだ。ゲームならリセットボタンがあるけれど、現実にはない。あったら押したい。思わず本気でそう思う。

タスク管理なんて夢のまた夢

「タスク管理アプリ使ってますか?」と聞かれることがある。正直、紙の手帳もまともに埋まらない人間にアプリが使えるはずもない。予定の時間どおりにお客様が来てくれるとも限らないし、急ぎの電話が入れば予定表は一気に崩れる。結局、脳内メモと直感と気合いで乗り切るしかないのが現実だ。ああ、事務員さんがいてくれて助かるとは思う。でも、彼女がいなかったらと思うとゾッとするくらい、いろんなことが自転車操業になっている。

気づけば「また明日」が口癖から消えた

いつのまにか、「明日にしましょうか」と言えなくなった。言った瞬間に、明日のスケジュールが真っ黒になるのがわかっているから。心のどこかで、また明日があるなんて思わなくなっている。だから今日、今、ここで終わらせなければという強迫観念に近い意識がある。以前は「もう少しで終わる」が励みになっていた。でも最近は「終わらせないと生き残れない」に変わってきた。自分が変わったのか、仕事が変えたのか。

司法書士に「定時」なんてない

朝から夜まで働くのが当たり前になっている。でも、これを誰かに言うと「大変ですね」ではなく「士業って自由なんでしょ?」という反応が返ってくる。自由に見えるかもしれない。でも実際は、自由じゃなくて責任に縛られている。時間は自分で決められるけれど、結局お客様の都合で決まってしまうことがほとんどだ。だから定時なんて存在しない。終わりが見えないマラソンのように、今日もまた走り続ける。

依頼は急にやってくる

ある日の午後、やっと一息つけると思った瞬間に電話が鳴る。「すみません、急ぎの相続の件で相談したいんですけど…」。こんなことは日常茶飯事だ。こちらにとっては予想外でも、依頼者にとっては切実な問題。だからこそ断れない。断れないけど、こっちのキャパは超えている。気づけば、また自分の予定は後回し。昼ご飯が夕方になったり、お風呂に入る時間を逃したり。もはや生活と仕事の境界がなくなっている。

土日も夜も関係ない世界

「土日お休みですか?」と聞かれると、返事に困る。形式上は休みだ。でも実際には、土曜日に打ち合わせ、日曜に資料作成ということも少なくない。夜も、子どもを寝かしつけた後の相談という依頼があったりする。相談者に罪はない。だけど、こっちの生活リズムは崩壊する。たまにテレビで「週休3日制」なんて言葉を見ると、もう遠い国の話のようにしか思えない。

電話1本で休日の気配が吹き飛ぶ

せっかくの休みの日、近くの温泉にでも行こうかと思っていたところに一本の電話。番号を見て一瞬迷うけど、出ないわけにはいかない。案の定、急ぎの相談で、休日はあっという間に仕事モードに引き戻される。身体は休めていても、心は緊張している。まるで、24時間営業の小さな会社を一人で切り盛りしているようなもの。そんな日々が続けば、そりゃあ心も疲れる。

「また明日」で流せたら楽だった

「今日はこのへんで終わりにして、明日またやろう」。そう言えたらどれだけ救われるか。だけど現実は、明日には明日の火種が待っている。だから今日を終わらせなければ、明日がもっとしんどくなる。そんなふうにして毎日を消耗している。たまに机に突っ伏して「もういいや」とつぶやくこともある。でも結局、立ち上がってまた書類に向かってしまう自分がいる。

優しさが首を絞める仕事

断ることが苦手だ。特に、切羽詰まった依頼者の顔を見ると、自分のことは後回しにしてでも助けたくなってしまう。元野球部で、チームのことを優先してきた癖が抜けないのかもしれない。でもそれが積もり積もって、自分の時間をどんどん削っていく。優しさで始めた対応が、自分を苦しめる結果になることもある。人のために働いて、自分が壊れていくって、皮肉な話だ。

断れない性格と職業選びのミスマッチ

人の話を真剣に聞いてしまう性格だ。だから司法書士という仕事を選んだのは、ある意味で正解だったかもしれない。でも、断る強さが必要だったと後から気づいた。法律の知識だけじゃない、人間関係のさじ加減がものを言う。案件を受けるか受けないか、その判断の繰り返しに心がすり減っていく。もしタイムマシンがあったら、もう少し図太くなれと言いたい。

事務員さんの前では強がっている

彼女の前ではなるべく明るくふるまっている。「今日も忙しいね〜」なんて冗談交じりに言いながら、内心ではひーひー言ってる。でも、愚痴ばっかり言うと雰囲気が悪くなる。だからこそ、無理してでも笑顔でいることを選んでしまう。けれどそれが余計にしんどい日もある。誰かに本音をぶつけたい、そんな夜もある。

一人じゃないけど、孤独

事務員さんがいてくれることには感謝している。でも、最終的な責任はすべて自分にある。どんなに親身になってくれても、代表者は一人。判断ミスも、対応ミスも、全部自分に返ってくる。だからこそ、日々の重圧が抜けない。人と一緒に働いていても、孤独感は消えないのだ。

弱音はどこで吐けばいいのか

昔は仲間と飲みに行って、「やってらんねぇよな〜」って笑い飛ばしてた。でも今は、そういう時間がない。誰かに愚痴を聞いてもらう余裕もない。かといって、SNSで吐き出すわけにもいかず、溜まるばかり。声に出せない悩みは、気づけば身体に出てくるようになった。腰痛、胃痛、寝つきの悪さ――全部、心から来てる気がする。

コンビニの店員さんが唯一の聞き役

夜、疲れ果ててコンビニに寄ったときに「お疲れさまです」と言われて、泣きそうになったことがある。たった一言が、こんなに沁みるなんて。人は言葉だけで救われることもある。自分も、誰かにそう思ってもらえるような仕事ができているだろうか。そう自問するたび、明日もがんばるかと、また立ち上がってしまう。

こんな日々でも続けている理由

何度も「辞めたい」と思った。でも、そのたびに思い出す言葉がある。「先生がいてくれて助かりました」。その一言が、自分の存在価値を教えてくれる。たとえ誰にもモテなくても、誰かの人生には必要とされている。それだけで、もう少し頑張ってみようと思えるのだ。

「ありがとう」に救われたことがある

ときどき、感謝の手紙をもらうことがある。封筒の中に入った便箋に、丁寧な字で綴られた言葉たち。それを読むと、疲れた心が少しだけ和らぐ。やっぱり、自分の仕事には意味がある。そんな実感が、何よりの報酬になる。

人の人生に関われる仕事のやりがい

相続や登記、離婚や成年後見――どれも人生の節目だ。そんな場面に立ち会える仕事は、そう多くない。しんどいけれど、それでも続けたいと思うのは、その重みがわかるから。誰かの人生にとっての「一大事」に関われるという責任と、やりがいが、この仕事には詰まっている。

でもやっぱり、休みたい

やりがいがあるからって、疲れないわけじゃない。やっぱり休みたいし、眠りたいし、誰かに甘えたい。だけどそのすべてを飲み込んで、今日もまた「あとひと踏ん張り」してしまう。明日は来ないかもしれないけれど、今この瞬間を生きるしかないのだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。