温泉の湯けむりに紛れる寂しさ
休日にふと思い立って、車を一時間ほど走らせて温泉に向かうことがある。日帰りの温泉施設は静かで、露天風呂から見える山の景色も美しい。確かに気持ちはいい。体の疲れも取れるし、何より誰にも邪魔されない時間は貴重だ。でも、湯に浸かりながらぼーっと空を見上げていると、ふとした瞬間に「なんで俺、一人でここにいるんだろう」と思う。誰かと来たいわけじゃない。でも、誰かが隣にいたらどうだったんだろうと思ってしまう。
誰にも邪魔されない時間は本当に自由か
独身の自由さは、誰にも縛られないという意味では最高だ。自分のペースで物事を進められるし、行きたいときに行きたい場所に行ける。だからこそ、温泉も気軽に来られる。でも、誰にも邪魔されないということは、裏を返せば「誰にも必要とされていない時間」でもある。お湯の中でぽつんと浮かんでいるような感覚に陥ることもある。心地よいはずの静けさが、やけに胸に刺さることがあるのだ。
一人旅のメリットと引き換えに感じる空白
自分のペースで動ける一人旅は確かに楽だ。時間配分も食事も気ままで、何もかもが自分次第。でも、周りを見渡せばカップルや家族連れが当たり前のように楽しんでいる。その光景に対して嫉妬しているわけじゃないけど、自分だけ少し違う場所にいるような感覚になる。お湯のぬくもりはあるのに、心の中はどこか冷えている。こういう感情を打ち明ける相手がいれば違ったのだろうか。
「静けさ」が刺さる瞬間がある
温泉の露天風呂にひとりきりで入っているとき、時折聞こえる風の音や鳥の声に耳をすませる。何もしなくていい時間は贅沢なはずなのに、どうしても「孤独」という言葉が浮かんでくる。誰にも話しかけられず、誰とも会話せず、ただ時間が過ぎていく感覚。その静けさは、心の奥にある寂しさを引き出してくる。かつてはこの静けさを求めていたのに、いまはそれがつらい。
まわりの会話が心に刺さる日
温泉の休憩所で耳に入る家族の笑い声。ごく当たり前のやり取りのはずなのに、なぜかその明るさがまぶしすぎて直視できない。うるさいと感じるわけじゃない。むしろ羨ましさにも近い感情かもしれない。自分もかつて家族旅行に出かけたことがある。でも今は、その記憶を思い出すと余計に今の一人が際立ってしまう。だからこそ、あまり長居せずに早めに帰ることが多くなった。
家族連れの笑い声がなぜか気になる
子どもがはしゃいでいる声、夫婦の何気ない会話。それらは生活の一部であって特別なものではないのだろう。でも、それすらも羨ましいと感じてしまう自分がいる。家族がいるというだけで、こんなにも世界が色づいて見えるのかと。逆に言えば、自分の世界には何かが足りていないのかもしれない。だからこそ、そんな音が逆に孤独を際立たせる要素になるのだ。
スマホを見ても通知がない現実
ふとスマホを取り出しても、特に連絡は来ていない。LINEもメールも静かなまま。こういうとき、無性に「誰かとつながっていたい」と思ってしまう。でも、自分から連絡を取る勇気もない。元野球部のくせに、こういうときだけやけに臆病になる。仕事では強気でいられるのに、プライベートではただの寂しがり屋だと痛感する。
司法書士という職業の重みと孤独
毎日誰かの手続きや相談に応じて、時に感謝され、時に責任を問われる。そんな仕事をしていると、「自分のことは後回しでいい」と思うようになる。特に独身の自分は、仕事に逃げるようにして生きてきたのかもしれない。温泉に来てようやく一息ついても、頭の中では次の登記や依頼のことでいっぱいだ。湯気の向こうに浮かぶのは、現実という名のタスクばかり。
クライアントのために、いつも誰かの都合に合わせる日々
登記申請の締切、顧客からの急な依頼、トラブル対応…。司法書士という仕事は地味だけど、とにかく細かくて神経を使う。だからこそ、クライアントに迷惑をかけないように、常に自分のスケジュールは空けておかないといけない。休日の温泉も、実はスマホの電源を切れずにいることが多い。リラックスしながらも、心はずっと緊張している。
休みの日に予定を入れない習慣ができた理由
「予定を入れた途端に緊急の対応が入る」そんなジンクスのような日々が続いた結果、休みは予定を立てずに過ごすことが習慣になってしまった。誰かと一緒に過ごすようなことも減り、結果として一人で行動することが当たり前になった。そうなると、だんだん誘われることも減っていく。自分で選んだ道ではあるけど、時々その選択を後悔する。
「緊急対応できるようにしておくね」の一言で休まらない
登記の締切や契約の期日が近いとき、事務員さんからの「今日は対応できるようにしておきますか?」の一言で、完全に休んだ気がしなくなる。たとえ連絡が来なかったとしても、何かあればすぐ動けるようにしておかないといけない。それが責任だし、信頼でもある。でも、温泉に浸かってもスマホを手放せないような状況に、時折むなしくなる。
癒しを求めたはずが自分の現実と向き合ってしまう
温泉は本来、心身を癒す場所のはずだ。だが、いざ一人になると、自分の中にある不安や焦燥が浮き彫りになる。未来への不安、家庭を持たなかった選択、仕事へのやりがいと疲弊。その全部が、湯気の中でぼんやりと広がっていく。自分と向き合う時間は大事だ。でも、それが癒しにならないこともある。
露天風呂で空を見上げると不安も浮かんでくる
夜の露天風呂、満天の星空。理想的な癒しのシーンのはずなのに、心の中には「この先どうなるんだろう」という漠然とした不安が広がっていく。登記の仕事はいつまで続けられるのか、健康は大丈夫なのか、老後はどうするのか。そんな思考が止まらなくなる。星が綺麗であればあるほど、自分がちっぽけに感じる。
結婚していたらどうだったかと考えてしまう夜
もしあのとき、別の道を選んでいたら。そんな「たられば」を考えてしまう夜がある。結婚していたら、こんな寂しさは感じなかったのか。家族がいれば、温泉ももっと楽しい場所になっていたのか。そんなことを考えても仕方ないと頭ではわかっている。それでも、年齢を重ねるほどに、その「もしも」は重くなる。
でも、それでもまた一人で行く理由
それでも、また次の休日にもきっと一人で温泉に行くと思う。なぜなら、どんなに寂しくても、やっぱりそこには癒しがあるから。孤独に耐える力をつけるためかもしれないし、自分を見つめ直す時間として必要だからかもしれない。誰かと行く温泉はきっと楽しい。でも、一人で行く温泉も、悪くない。いや、むしろ必要なのだ。
気を遣わずに過ごせる贅沢さ
誰かと行けば、気を遣う。食事のペース、話題、タイミング。すべてにおいて「気配り」が必要になる。でも、一人ならその必要がない。静かに湯に浸かりたいときに浸かり、眠くなったら仮眠を取ればいい。それは贅沢で、特別な時間だ。誰にも邪魔されない時間の中で、自分を取り戻していく。
人に合わせないという自由
誰かと一緒にいることは温かい。けれど、それが重く感じる日もある。特に司法書士の仕事をしていると、日常的に他人に合わせることが多すぎて、自分の感情を押し殺すことに慣れてしまう。だからこそ、休日くらいは誰にも合わせず、自分のペースで過ごしたい。温泉はその自由をくれる数少ない場所だ。
話しかけられないという心地よさ
「話さない」という選択肢が自然に許されるのが温泉の良さでもある。仕事では常に言葉を使い、相手に安心感を与える必要がある。でも、温泉では言葉はいらない。ただ湯に身を任せるだけでいい。誰からも話しかけられず、誰にも気を使わずにいられる。それは、普段の仕事では得られない貴重な時間だ。
少しずつ自分を整える時間として
温泉に入るたびに、自分の中で何かがリセットされていく感覚がある。完全に疲れが取れるわけではない。孤独が消えるわけでもない。それでも、ほんの少しだけ、心が落ち着く。その「ほんの少し」があるから、また仕事を続けられる。たぶん、それで十分なのだと思う。
湯につかりながら仕事の整理をする癖
湯の中で「明日はあの案件を先に処理しよう」「あのクライアントにはこう伝えよう」と頭の中で仕事の整理をしてしまう。癖のようなものだ。でも、不思議と嫌じゃない。仕事とプライベートの境目が曖昧な生活だからこそ、こういう時間にしか考えがまとまらない。温泉は、静かなオフィスでもあるのかもしれない。
また明日から頑張るための小さなリセット
完璧な癒しではなくても、ひとときの静けさとぬくもりが、心の隅に溜まった疲れをゆっくりと溶かしてくれる。そしてまた、あの机に向かう覚悟ができる。明日もまた忙しい。でも、こうして一人温泉に行ける日があるから、なんとかやっていける。そんな小さなリセットが、今の自分には必要なのだ。