静かな事務所に響いた一言
司法書士の仕事は、派手さも華やかさもない。地味に、淡々と、書類を積み上げていく毎日。田舎の一人事務所、スタッフもひとり。朝から晩まで二人きりの空間に、機械のように書類が流れていく。そんな静かな日々に、ふとした一言が差し込むだけで、心がざわつくことがある。いい意味でも、悪い意味でも。そして、たまに、ごくたまに、「本当に助かりました」という言葉が、思いがけず飛び込んでくる。あの日も、そんな一日だった。
今日もまた書類の山との格闘
朝イチで机に山積みの申請書。最近は相続関係の相談が多い。高齢化社会の縮図みたいな相談内容ばかりで、読んでるだけで胃が痛くなる。にもかかわらず、役所や法務局は融通が利かないから、こちらも神経をすり減らす。書類に不備があれば容赦なく突き返される。それが重なると「俺、何やってんだろうな」とぼやきたくもなる。だけど手を止めるわけにはいかない。目の前に待っている人がいる限り。
事務員と二人きりの戦場
うちの事務所はコンパクト。人もモノも最小限。事務員の彼女は30代で、子育てと両立しながら週4で来てくれている。正直、いてくれるだけでありがたい。でも、仕事の境界線はいつも曖昧で、「これ、私の仕事ですか?」と聞かれることもある。
「これ、私の仕事ですか?」の一言に沈黙
ある日、登記の準備でバタバタしていたとき、彼女にちょっと書類の準備を頼んだら、そんな一言が返ってきた。思わず黙ってしまった。責めてるわけじゃない。むしろ当然の感覚だと思う。でも、そのときの自分には余裕がなかった。どこか「察してくれよ」と甘えていたのだろう。
それでも辞めずにいてくれるありがたさ
それから数日、どこか気まずい雰囲気が流れていたが、彼女は変わらず机に向かい、書類を整えてくれていた。感情を出さずに仕事を続けるその姿に、逆に自分が救われたような気がした。人手不足の地方で、こんなふうに淡々と働いてくれる人がどれだけ貴重か。しみじみ実感する。
あの依頼人との出会い
あの日の午後、事務所に一人の女性が訪ねてきた。50代後半くらい、少し疲れた表情をしていた。予約もしていなかったけれど、たまたま他の予定もなく、「少しなら」と話を聞くことにした。だが、その“少し”は結局1時間を超えた。
時間外の相談対応 正直つらかった
その日はすでに相続関係の対応でクタクタ。正直、気持ちの余裕はなかった。けれど話を聞き始めたら、とても途中で切れる内容じゃなかった。兄弟との確執、亡くなった親の借金問題、そして無理やり押し付けられた相続放棄の話。こんなとき、書類だけで済む仕事だったらどれだけ楽かと思う。
土曜日の夕方に鳴る電話の音が嫌いだ
土曜の夕方、ゆっくりしたい時間に限って鳴る電話。それが嫌で着信音を変えたこともある。だけど、今回の相談もまさにそんな時間帯に来た。対応すべきか、無視すべきか迷って、結局受けてしまう。どこかで“困っている人を断れない”性格が抜けない。
でも聞けば聞くほど気の毒な事情だった
話を聞いていくうちに、単なる手続きの問題ではなく、人生の重さが伝わってきた。書類一枚で人間関係が変わる。その責任を背負う怖さと同時に、頼ってくれる相手の必死さも感じた。自分がやらなきゃ誰がやる、そんな気持ちになった。
役所との往復で感じた虚しさ
その後の手続きは簡単じゃなかった。役所と法務局を何度も往復し、確認して、書き直して。それでも「これでいけますか?」と聞いても、「いや、まだですね」と返される日々。頑張っても報われない虚しさに、何度も心が折れかけた。
何度も足を運んでも動かない現実
ときどき、本当に制度は人のためにあるのか疑いたくなる。法の不備ではなく、運用の問題なのか、曖昧な基準に振り回される。こんなに時間と労力をかけて、誰のためになるのか分からなくなる瞬間がある。
それでもこちらに向けられる信頼
でも、依頼人は一度も文句を言わなかった。「大変ですね」「申し訳ないです」と、こちらを気遣う言葉ばかり。それが逆にプレッシャーになって、「なんとかせねば」と自分を奮い立たせる原動力になった。
本当に助かりましたの重み
最終的に、登記が完了したとき、その方は事務所に来て、深く頭を下げて「本当に助かりました」と言ってくれた。その瞬間、胸の奥にずしんと何かが落ちたような気がした。言葉の重みって、こういうときに分かる。
一言がこんなに沁みる日が来るとは
誰かに感謝されることなんて、年齢を重ねるほど減っていく。ましてや、普段は感情のない書類とばかり向き合っている日々。だからこそ、その「ありがとう」が沁みた。仕事として以上に、人として肯定された気がした。
プロとして報われた瞬間
資格を取って十数年。報酬よりも、承認よりも、「助かりました」の一言が一番の報酬になることを、このとき初めて本当の意味で実感した。苦しい日々も、すべてこの一言のためだったのかもしれない。
帰り道 ちょっと涙が出た
その日の帰り、車の中でふと目頭が熱くなった。人に言えるような話じゃない。でも、こんな感情を味わえる仕事に就けたことを、少しだけ誇りに思った。たとえ報われることが少なくても、この一瞬がある限り、自分の選んだ道を歩いていける気がした。
誰にも話せない でも忘れたくない
この出来事は、誰かに自慢するようなものじゃない。ただ、自分の中にそっとしまっておきたい記憶。仕事がつらくなったとき、思い出すだけでまた一歩踏み出せる、そんな記憶になった。
愚痴ばかりの毎日に差し込んだ光
日々、文句を言いながら書類と格闘している。でも、そんな毎日に、一筋の光が差し込むことがある。今回のような一言が、心を癒し、また机に向かう力になるのだと思う。
こういう日があるからやめられない
やめたくなる日は数えきれない。でも、こういう日があるから、簡単には辞められない。だからこそ、今日もまた、静かな事務所でキーボードを叩いている。自分なりの使命感を、まだどこかで信じている。