たまには誰かに甘えたくなる日がある

たまには誰かに甘えたくなる日がある

甘えたい気持ちを押し殺してきた自分へ

「甘えたい」なんて思ったら負けだ。ずっとそう思って生きてきた。司法書士として独立して十数年、どんなに辛くても「自分で何とかする」ことを当然にしてきた。元野球部の精神論が根っこに染みついていて、人に頼ることを恥だと感じていたのかもしれない。でも本音を言えば、たまには誰かに弱音を吐きたい。相談されたり頼られたりすることはあっても、逆の立場になると急に言葉が詰まる。そんな自分が、年々しんどくなっている気がする。

頼るのが苦手な性格はいつから始まったのか

頼りたくても頼れない、そんな性格がいつから身についたのか、正確には覚えていない。ただ、小学生の頃から「しっかりしているね」と言われることが多かった気がする。高校時代は野球部でキャプテンを任され、誰よりも声を出し、誰よりも早くグラウンドに出るのが当たり前。社会人になってからも「甘える前にやることやれ」という職場にいた。気がつけば「誰にも頼らず頑張る自分」が当たり前になっていた。誇らしい半面、それが自分の首を絞めていたのかもしれない。

元野球部の「根性論」がいまだに抜けない

野球部時代の「気合で乗り切れ」「声出せばなんとかなる」的な精神論が、今でも自分の中に残っている。司法書士の業務は地味で根気が必要。だからこそ「最後まで一人でやり切ること」にこだわってしまう。それが仕事の正確さや信用につながっているとは思う。でも同時に、疲れた時に誰にも弱音を見せられず、ぎりぎりのところでなんとか踏ん張ってしまう。まるで試合で怪我をしてもベンチに戻らない選手みたいに。もう引退して久しいのに、心のどこかであの頃のルールを自分に課している。

「泣くのは恥」と思い込んできたツケ

男が泣くなんて情けない——そんな感覚が染みついていた。実際、泣いた記憶なんてここ数年ほとんどない。でも、心が張りつめすぎて、ふとしたときに目に涙がたまることがある。誰かの優しい言葉、ふと目に入ったドラマのワンシーン、疲れた夜のコンビニ帰り。そういうときに「ああ、俺、けっこう限界だったんだな」と気づくことがある。泣けない男は強いんじゃなくて、不器用で感情の逃げ場を知らないだけ。ツケはいつか、心にじわじわ響いてくる。

事務所のドアを閉めたあとに襲ってくる孤独

日中はバタバタと書類と電話に追われ、気づけば日が暮れている。事務所のドアを閉めた瞬間、急に静けさがやってくる。冷蔵庫の音が妙に大きく聞こえるアパートの部屋で、ようやく「今日も一日しゃべる相手は事務員と郵便配達だけだったな」と気づく。孤独というのは、時間の隙間からひょっこり顔を出す。誰かに「おつかれ」と言ってもらえるだけで救われる気がするのに、その「誰か」がいない現実に、背中を丸めたままお茶をすすってしまう。

一人事務所というリアルな孤独感

一人で仕事をしていると、自由もあるけれど、孤独も大きい。特に、自分のように地方でこぢんまりやっている司法書士は、同業者とのつながりも希薄になりがちだ。仕事の内容や進捗を誰かと共有することも少なく、問題が起きたときは全責任が自分。誰にも相談できないまま、独り言だけが増えていく。たまに事務員が休んだ日などは、電話対応も全て自分で、ますます孤独を感じる。小さな悩みを話せる相手がいるだけで、こんなに違うのに、と思うことがある。

仕事相手には見せられない本音

お客さんに「先生」なんて呼ばれると、その期待に応えなきゃと背筋を伸ばす。でも実際のところ、こちらだって不安だし、悩むこともある。たとえば相続案件で家族間の関係が複雑なとき、自分がどこまで踏み込むべきか葛藤することも多い。でもそれを表に出すと信頼を損なうかもしれない。だから笑顔で対応しながら、内心は胃をきゅっと締めつけられている。仕事相手には見せられない「しんどさ」は、だれかと分かち合いたくても、場所がない。

「今日は誰とも会話してないな」と気づく瞬間

夕方、ふと「今日はまだ人と口をきいていない」と気づくと、胸にぽっかり穴が空くような感覚になる。コンビニの店員との「袋いりますか?」くらいが、唯一の会話だったりする。そんな日が続くと、自分の存在が薄くなっていくような不安に襲われる。SNSを開いても、誰かの楽しそうな投稿が目について余計に孤独を感じてしまう。誰かに必要とされているはずなのに、それを感じられない日もある。それでも翌朝には、また淡々と事務所の鍵を開ける自分がいる。

誰にも言えないけど本当は甘えたい

「先生って呼ばれるけど、本当は甘えたいんです」なんて、誰に言えるだろう。人に頼らず頑張ってきたぶん、余計に誰かに「寄りかかる」感覚がわからなくなっている。でも心のどこかでは、それを強く求めている。たとえば、体調が悪い日に「大丈夫?」って声をかけてもらえるだけで、涙が出そうになる。甘えたいのに、甘える術がわからない。そういう自分に気づいてから、少しずつ人に頼ることの大切さを考えるようになった。

気を使われると逆に遠慮してしまう不器用さ

たとえば飲み会で「疲れてない?」と聞かれると、思わず「大丈夫です」と答えてしまう。優しさが怖い。期待に応えようとしてしまうから。人の気遣いに敏感すぎるあまり、素直に甘えられない。でも本当は、黙って隣に座ってくれるだけでいい、何も言わずにお茶を入れてくれるだけで心が緩むのに。不器用な自分は、気づかれない優しさに救われてきたことを、あとになってから気づくのだ。

「大丈夫?」の一言が怖いと思う理由

「大丈夫?」と聞かれると、胸の奥にしまいこんだものが溢れそうになる。だからこそ怖い。それを出してしまったら、もう戻れない気がして。司法書士としての自分、人に頼られ信頼される存在としての自分。それを崩したくなくて、「大丈夫です」と笑ってしまう。でも本当は、そうやって何度も自分を押し殺してきたんじゃないか。たまには「大丈夫じゃない」と言ってみてもいいのかもしれない。そう思えるようになったのは、ここ最近の話だ。

優しさを持て余している自分がいる

誰かに優しくしたい気持ちはある。でも、自分が満たされていないと、なかなかそれを行動に移せない。優しさを持て余しているというのは、なんとも寂しい話だ。独りでいる時間が長いと、人とどう接したらいいかすらわからなくなってくる。優しさの送り先がないと、どんどん自分の中にたまっていって、やがて苦しくなる。甘えることは、もしかしたらその優しさを循環させるために必要なことなのかもしれない。

自分が思うより、きっと周囲も同じように孤独

自分だけが孤独なわけじゃない。隣の事務所の先生も、コンビニの店員さんも、毎朝すれ違う新聞配達の人も、それぞれの場所で何かを抱えている。そう思うと、少しだけ気が楽になる。誰かに甘えたい気持ちは、恥ずかしいことでも特別なことでもなく、きっとみんなに共通する感情なんだ。だからこそ、誰かの甘えを受け止められる人になりたい。そう思うようになったのも、長年ひとりで頑張ってきたからかもしれない。

甘える勇気がある人のほうが、実は強いのかもしれない

甘えるって、簡単そうで難しい。特に大人になると、つい自分で何とかしようとしてしまう。でも本当の意味で「自分を出す」って、実はすごく勇気がいる。弱い部分を見せるのは怖い。でも、そこをさらけ出せる人こそが、実は一番強いのかもしれない。甘えられる人になりたい。甘えてくれる人がいたら、受け止められる自分でいたい。そんなふうに少しずつ、自分を許せるようになってきた今日この頃である。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。