誰にも話さず始まる一日
朝、事務所の鍵を開ける音だけが静寂の中に響く。隣の美容室はまだ開いていないし、通りには誰の姿もない。いつからか、出勤して最初に話しかける相手は「おはよう」と心の中でつぶやく職印になっていた。誰かと挨拶を交わすことも、通勤途中に話しかけられることも、もう何年もない。独身で一人暮らし。自営業。職員は一人いるけれど、朝の立ち上がりは基本的に静かに始まる。これが「司法書士の日常」なんだと、もう受け入れている。
朝のルーティンは静寂から始まる
事務所に入ったらまず、コーヒーを淹れて、パソコンの電源を入れる。それからメールチェック。全てが無音の中で淡々と進む。音が欲しくてラジオをつける日もあるが、それさえ鬱陶しく感じる日もある。こんな毎日を過ごしていると、誰かと会話するという行為自体が、少し面倒に思えてくる。だけど時々ふと、「俺、声出してないな」と気づいて、わざと独り言をつぶやくこともある。「さて、やるか」なんて言って、誰もいない空間に向かって気合を入れるのだ。
すれ違う人もいない通勤路
車で通勤するのだけれど、途中で顔見知りとすれ違うこともない。地元だから知り合いは多いはずなのに、朝の時間帯には誰も歩いていない。ラジオで流れる交通情報を聞きながら、「今日も話す相手はいないな」と心の中で思ってしまう。この時間帯にすれ違うのは、新聞配達のバイクか、農家のおじいさんくらいである。なんだか世界から切り離されたような感覚に陥る。だけどこの静けさに、どこか安心感を覚えてしまう自分もいるのが少し寂しい。
電話もチャイムも鳴らない日
開業してから十数年。依頼があったりなかったりの波には慣れているつもりだったが、最近は本当に「音」が少ない。電話が鳴らない日が増え、来客もなく一日が終わることがある。無音の事務所で机に向かっていると、時々自分が存在しているのかどうかさえわからなくなる。そんなとき、職印を手に取って「ガシャン」と押印する音だけが、唯一の現実感をもたらしてくれるのだ。
事務員も忙しくて無言の時間ばかり
一緒に働いてくれている事務員さんは気が利くし、無駄話もせず黙々と仕事をこなしてくれる。でも、それが逆に静寂を助長する。別に嫌な空気というわけじゃない。ただ、お互いに忙しさでいっぱいだから、必要最低限の会話だけになる。昼になってようやく「お弁当食べますか?」と聞かれるくらいで、それ以外はキーボードの音とコピー機の稼働音だけ。なんだか、音に囲まれた静けさの中で生きている感じだ。
着信ゼロのスマホを確認する癖
習慣って怖い。スマホに着信がないのに、何度も画面を見てしまう。LINEもメールも更新されていないことがわかっているのに、確認せずにはいられない。これが癖になると、「誰かからの連絡を待っている自分」に気づいて余計に落ち込む。どうせ仕事の連絡以外は来ないってわかってるのに。それでも、一縷の望みをかけて画面をスワイプする。それが日課になってしまっているのが、なんとも情けない。
頼れるのは職印だけ
司法書士という仕事をしていて、最も信頼している道具は?と聞かれたら、間違いなく「職印」と答えるだろう。登録証明書でもなく、認印でもなく、職印だ。これがなければ登記は進まない。責任の証でもあり、自分の存在を証明する「声」のようなものでもある。誰にも会わず、誰とも話さず、それでも仕事が進んでいく中で、職印だけが確かな手応えをくれる。
スタンプ音だけが鳴る静かな午後
14時頃、登記申請のために一気に書類に押印する時間がある。「カチッ」「ガシャン」……この音だけが事務所に響く。まるでリズムを奏でるような音が、妙に心地よい。職印にインクをつけて、位置を確認して押す。その一連の動作だけが、無音の午後に「自分が今ここにいる」と実感させてくれる。ちょっとした儀式みたいなもので、この時間がなぜか好きだ。
感情も声も吸い込まれる職印の沈黙
押印は無言だ。当たり前だが、職印は何も言わない。だけど、だからこそ安心するのかもしれない。ミスを責めることもなく、判断を求めることもなく、ただ印影を残すだけ。その静かな姿勢に、救われている気さえする。書類に「カチッ」と押された瞬間、今日もまた一歩前進したような気がするのだ。たったそれだけのことで、ほんの少しだけ、自分を認めてもいいかなと思える。
そろそろ限界かもしれない
正直なところ、こんなに人と関わらない生活が続くと、ふと限界を感じる瞬間がある。声を出す機会も少なく、電話が鳴っただけでビクッとするようになった。気づかないうちに「人と関わる筋肉」が衰えてきているのかもしれない。久しぶりに友人と会っても会話がぎこちなくて、自分でも「こんなに下手だったっけ」と思う。孤独が染みついてしまっているのかもしれない。
孤独よりも無関心がつらい
孤独は慣れる。だけど、無関心には慣れない。誰からも期待されていない気がしたり、存在を忘れられているような気持ちになると、急に胸が苦しくなる。それでも毎日仕事はこなすし、依頼は丁寧に処理している。でも、たまに「誰かに見てもらいたい」という気持ちが湧き上がってくる。それがただの自己満足でも、見られているという意識は人を支えるのだと痛感する。
誰かに聞いてほしいただの愚痴
今日の出来事を誰かに話したい。あの登記のややこしさとか、依頼者の曖昧な説明に苦労したこととか、事務所でひとりコーヒーをこぼして慌てたこととか。どれもたいしたことじゃない。だけど、そんな小さなことでも誰かに「あるある」と言ってもらえたら、救われる気がする。愚痴を言いたいだけなんだ。怒ってるわけでもない。寂しいだけなんだ。
明日も職印と会話する日が来る
たぶん、明日もまた職印としか会話しないかもしれない。でも、それでもいいと思える自分がいる。誰かと比べるわけでもなく、成果を大きく見せる必要もない。地道に、一歩一歩。職印の音が「今日もちゃんとやったな」と言ってくれているように思える。だから、明日もまた机に向かって、書類を整えて、印を押していく。少しずつでも、確かに進んでいければそれでいい。
それでも前に進む自分への小さなエール
職印とだけ話している日々は、確かに孤独だ。でも、その孤独の中でこそ、誰かの役に立っているという事実がある。依頼者には届かない物語かもしれない。でも、確かにその一枚一枚の書類の先に、「ありがとう」と思ってくれる誰かがいる。そう信じて、今日もまた、無言の事務所で、職印を押す。少しだけ自分に「おつかれ」と声をかけながら。