完璧じゃなきゃダメなのかと毎日思ってしまう
誰も求めていないのに勝手に追い詰められる
たとえ誰かに「完璧でいてくれ」と直接言われたわけではなくても、自分の中に「ミスは許されない」という意識が根強く残っている。誰も責めていないのに、勝手に自分を責めている。そういう日々が続いている。司法書士という仕事は、形式的にはミスを避けて当然という立場だし、書類ひとつの不備がクライアントの信頼を揺るがす。でもそれにしても、自分で自分をここまで追い詰めるのは、正直しんどい。
完璧主義が染みついた理由は部活にあった
中学高校と野球部で過ごした時間が、今でも自分の人格の根っこにある。野球部では「言い訳はするな」「自分の責任だ」「失敗は走って詫びろ」といった精神論が当たり前で、それに反発する余地などなかった。先輩の機嫌を損ねないように、監督の雷を避けるように、常に神経を張り詰めていた。自分のエラーが試合の負けに直結するかもしれないというプレッシャーは、司法書士の仕事に通じるものがある。
元野球部の上下関係と怒鳴られ文化
あの頃は「怒鳴られてなんぼ」だった。バットを地面に叩きつける音、グラウンドに響く怒号、理不尽な走り込み。いま思えばただの恐怖政治だが、当時の自分には「認めてもらうためには完璧でなければならない」という刷り込みがなされてしまった。その呪縛がいまでも続いているのかもしれない。上司ではなく、今は自分が経営者なのに、自分自身に怒鳴られているような気がする瞬間がある。
一度のミスが全否定につながる恐怖
「一つのミスで全部ダメになる」この感覚はずっと消えない。お客さんに電話で訂正を伝えるとき、たとえ些細な訂正でも「もう二度と頼んでもらえないかもしれない」と思ってしまう。根拠もないのに、負の妄想が暴走する。事務員の前でも平静を装うけど、内心では「自分の信用が減っていく音」が聞こえているような気さえしている。
司法書士になっても消えない「失敗=終わり」の感覚
司法書士になった今でも、あの「失敗=罰」という考えは消えない。責任ある仕事だから慎重になるのは当然だ。でも、慎重と強迫観念は違う。心の中で「完璧でなければならない」と唱え続けているうちに、日常のすべてが疲れるようになった。たった1行の記載ミスに、自分の存在を否定された気分になるのは、もう病気に近いと思っている。
誰も誉めてくれないのに責められる
この仕事、基本的に「ありがとう」はあっても「すごいですね」はない。そして「なんで間違えたんですか」は容赦なく飛んでくる。人としての感情を持ちつつ、機械のような正確さを求められるこのバランスの中で、自分は少しずつすり減っている。
登記ミスは自己責任でも現実はチーム責任
事務員が書類を作成し、自分が最終確認をする。形式上はそれで問題ない。でも実際には、そのどこかでミスが起きた場合、自分の責任になる。事務員の手がすべったのかもしれないし、こちらの指示が曖昧だったのかもしれない。でも結果的に「司法書士さん、ミスですよね?」と言われるのは自分だ。責任をとるというのはそういうことだが、理解はしていても、やっぱり割り切れない。
事務員の入力ミスに気づけなかった自分のせい?
つい先日も、事務員が入力した所有権移転の登記申請書で地番を一つ飛ばしていた。たまたま法務局からの補正通知で気づいたが、あれが登記完了後だったら冷や汗では済まなかった。怒りたいわけじゃない。でも、黙ってるとストレスが溜まる。伝えると事務員が落ち込む。その空気がまたつらい。責めても救われず、我慢しても苦しい。完璧の壁に、両側からはさまれてる感じがする。
「なんで気づかなかったんですか」の一言で凹む
お客さんからの一言、「司法書士さん、なんで気づかなかったんですか?」が頭の中にぐるぐる回る。「ああ、信頼を失った」と勝手に思い込んでしまう。たぶん相手はそんなに深くは考えてないのかもしれない。でも自分は、そういう言葉の刃に耐えられなくなってきてる。完璧を求められることが、ただただ怖い。
でも誰もこっちの事情は知らない
実際には、日々の業務に追われ、昼ごはんを食べる暇もないまま一日が終わることもある。でもそんな裏事情を説明しても、「プロでしょ?」で終わってしまう。確かにプロだけど、人間でもあるんだよ。そう言いたい気持ちはある。でも、それを口に出すと「言い訳」と取られる。結果として、誰にも何も言えなくなっていく。
理想の司法書士像と現実の乖離
「誠実で、丁寧で、迅速で、ミスがない」そんな理想の司法書士像に、いつのまにか自分を当てはめすぎていた。理想と現実の差に苦しみながら、でも理想から降りることもできずにいる。
誰よりも誠実でミスがないプロであれという呪い
司法書士の業界では、誠実さと正確さが求められる。でもそれを「一切のミスは許されない」に変換してしまうのは、結局自分自身だ。誰よりも真面目に、誰よりも几帳面に仕事をする。それが当たり前で、それができなければ価値がないと思っていた。でも、それって誰かの期待というより、自分が勝手に背負い込んでしまった理想じゃないかと、最近少しだけ思い始めている。
失敗できない空気が孤独を生む
たった一つの失敗が、自分の全人格を否定されたように感じるときがある。誰かに相談したくても、「ミスの話」はなぜか同業者とも共有しづらい。成功体験やノウハウは語れても、失敗談は胸にしまいがちだ。だから、どんどん孤独になっていく。誰にも弱音を吐けない場所に、いつのまにか立ってしまっている。
同業者にも本音を言えない
たとえば司法書士の勉強会などに出ても、みんなそれぞれ忙しそうで、悩みをこぼす空気ではない。SNSでも「今日も無事に完了」「依頼増えました」といったポジティブな投稿ばかり。だから、ちょっとした愚痴も書きづらい。「完璧でいる」圧力は、直接の言葉ではなく、雰囲気から染み込んでくる。
「大丈夫ですか?」と言われた時の正しい返しがわからない
疲れてる顔をしていたのか、事務員に「大丈夫ですか」と聞かれたとき、なんと答えていいかわからなかった。「うん、大丈夫」と答えたけど、本当は「全然大丈夫じゃない」でもそれを言ってどうする?結局、優しい言葉をもらっても、それを受け取る器が自分にはもうすり減ってしまってる気がする。
そんな自分を少しだけ許せた瞬間
それでも、ほんの少しだけ救われる瞬間もある。完璧でない自分が、誰かの役に立てたと実感したとき、その「不完全さ」がむしろ人間らしくて、あたたかいとすら思えることがある。
お客さんの「ありがとう」に救われた日
ある日、高齢の依頼者の方に登記が完了した旨を伝えると、「難しいことを全部任せて本当に助かった」と何度も何度も頭を下げられた。自分としてはごく当たり前のことをしただけだった。でも、その「ありがとう」の言葉が胸に沁みた。完璧じゃなくても、人は感謝してくれる。少しだけ、自分を許してやろうと思った。
元同級生の「お前頑張ってるよ」に泣きそうになった
偶然再会した高校時代の野球部仲間に、何気なく仕事の話をしたとき「お前、ちゃんと自分の道をやってて偉いよ」と言われた。普段、誰からも評価されることのない日常の中で、その一言がどれだけ嬉しかったか。完璧じゃなくても、ちゃんと生きてる。それでいいんじゃないか、そう思えた一瞬だった。
完璧じゃないことが人間らしさだった
完璧じゃない自分を、恥ずかしいと思っていた。でも今は、そうじゃない気もしてきた。完璧でなくても誠実であれば、ミスをしたあとに丁寧に対応すれば、それで充分信頼は築けるかもしれない。そう信じたい。
今のままでもいいと、ちょっとだけ思えた
完璧でないと不安で、怖くて、それでも今日までやってきた。でも、全部を背負いきれなくてもいいのかもしれない。少しずつ肩の荷を下ろして、自分にも「よくやってるよ」と言ってやれるようになりたい。少しずつでも、ね。