真面目そうで終わる男の哀しみ

真面目そうで終わる男の哀しみ

真面目って褒め言葉なのか呪いなのか

「真面目そうですね」――この言葉、たしかに悪口ではない。でも、嬉しかった記憶がない。人から初対面でそう言われるたび、「またか」と胸の中で小さくため息をつく。自分が真面目であることに異論はない。嘘は苦手だし、時間は守るし、ルールも破らない。でもそれが、人としての魅力につながるわけではないと、もう何度も思い知らされてきた。司法書士という堅い仕事柄、なおさらその印象は強くなる。でも「真面目ですね」の先に続く言葉が来たためしがない。つまり、それは話を終わらせるためのラベルなのだ。

初対面で言われる率ナンバーワンの言葉

「第一印象、どうでした?」と聞くと、9割くらいの人が「真面目そう」と答える。これはもう、ほぼテンプレだ。おそらく服装や話し方、姿勢や目の動きのすべてが、そういう印象を与えているのだろう。元野球部で上下関係は体に染みついてるし、そもそもふざけた態度が苦手だ。だからなのか、初対面で笑わせようと頑張ると逆に空回りする。盛り上がりそうな話題も「そうなんですね」とか「なるほどですね」で返してしまうから、「この人は会話が苦手」と思われる。実際、そういう場では自分でも居心地の悪さを感じる。

「真面目そうですね」は好意ではない

たとえば、合コンや異業種交流会。おしゃれな人やノリのいい人は「面白いですね」とか「優しそう」と言われる。ところが私に向けられるのは決まって「真面目そうですね」。これは「恋愛対象として見てません」宣言にも等しい。まるで「いい人ですね」と同じ構造だ。嫌われているわけではないけれど、好かれているわけでもない。無難な言葉で、相手の興味の薄さがにじみ出ている。わかってはいる。でも真面目であることしかできない人間にとって、それは痛烈なジャッジだ。

本音を隠す便利なフィルター言葉

考えてみれば、「真面目そう」という言葉は、相手の本音を濁すためのフィルターでもある。気まずくならないために、とりあえず悪くない印象でまとめる。そういう場面でよく使われる。だから、言われた瞬間に「ああ、興味ないんだな」とわかってしまう。そして一歩引いてしまう。「どうせまた終わるんだろう」と思いながら話す自分がいて、それがまた表情に出てしまう。真面目な人間が持つ“自信のなさ”が、ここにも出ている気がする。

恋愛市場での敗者は真面目な男

婚活も、恋愛も、真面目なだけでは勝てない。プロフィール欄に「誠実」「真面目」「堅実」と並べれば並べるほど、反応は鈍くなる。自分では「安心感」をアピールしているつもりでも、相手から見れば「つまらなそう」「地味そう」にしか見えない。学生時代からそうだった。恋愛がうまくいっている人は、どこか軽さや余裕がある。真面目な人間には、その「軽さ」が致命的に足りないのだ。

なぜか「いい人止まり」にされる不思議

「優しいですね」「いい人ですね」。そう言われるたび、心のどこかで「じゃあなぜ選ばれない?」と叫びたくなる。優しいのは事実だ。怒鳴ったり暴れたりは絶対にしない。でも、「ドキドキしない」「刺激がない」と言われたら、それまでだ。たとえば、昔、職場で一緒だった女性に告白したことがある。彼女は「本当にいい人で、大切な友達」と言ってくれた。でも次の週には別の男性と付き合い始めていた。刺激を与えられない男は、恋愛の土俵にも立てないのだと痛感した。

ノリの悪さが「人間味のなさ」と誤解される

冗談が言えない。盛り上がってる場でも笑うだけ。そんな姿を見て「冷たい人だと思ってた」と後から言われたこともある。こちらとしては無理して空気を壊さないようにしてるだけなのに、それが逆に“壁”として映るらしい。感情を表に出すのが苦手な真面目人間にとって、人間味を演出するのは至難の業。だからこそ「真面目そう」とだけ言われて、それ以上がない。それが何よりつらい。

面白くしようと頑張った時ほど滑る

一度、「自分も変わらなきゃ」と思って、ユーモアを交えたトークを試したことがある。が、それが大失敗。滑った空気に耐えられず、顔が真っ赤になった。結局、「あの人、無理してる感じがするよね」と陰で言われていたと後から聞いた。真面目な人間が無理に明るく振る舞おうとすると、かえって違和感が目立つ。無理に明るくなることが、かえって自分を否定してしまうことになる。だからもう、取り繕うことはやめた。

元野球部でも華はない

中学から高校まで野球一筋だった。坊主頭で毎日走り込み、試合ではキャッチャーとして汗をかいた。監督に怒鳴られ、先輩に殴られ、それでも辞めずに耐えた。そんな努力の積み重ねが、自分を形作ってきた。でも今、その経験がモテるわけでも、話題になるわけでもない。元野球部といえば、明るくて社交的なイメージがあるかもしれない。でも私は、そこに当てはまらなかった。

礼儀はあるけど愛嬌がない

野球部で鍛えられたのは、礼儀作法と我慢強さ。人の目を見てあいさつする。感謝を口にする。そういった基本的なことはできる。でもそれだけでは「人間的な魅力」にはならない。むしろ、愛嬌のなさが浮き彫りになるだけだ。おもしろおかしく話すのが苦手で、初対面でも空気が重くなりがち。野球部で培った“耐える力”が、今では“空気読めない人”に変換されている気さえする。

汗と努力は見せても評価されない

司法書士の仕事でも、ひたすら真面目にやっている。提出期限を守り、調査を怠らず、書類も丁寧に仕上げる。そうした積み重ねが信用につながることもあるが、派手さはない。「あの人すごい」と言われることもほとんどない。汗をかいても、それが誰かの心に残るわけではない。頑張りは見えにくいし、伝わりにくい。評価されるには、“見せ方”も必要なのだと最近痛感している。

「地味に頑張ってる人」止まりの人生

何をやっても、「地味に頑張ってる人」という枠から出られない。悪く言えば“その他大勢”。一発逆転の劇的な展開もなければ、誰かに大きく注目されることもない。それでも続けるしかない。真面目に働き、生活を守り、誰かの信頼を裏切らないように努める。それが自分にできる、せめてもの誠実さだと思っている。

じゃあ真面目を捨てればいいのか

もし真面目でなければ、人生はもっと楽だったのかもしれない。適当にサボることも、軽口を叩くこともできたかもしれない。でもそれができない。体に染みついた性格は、そう簡単に変えられない。真面目であることをやめたとき、自分は空っぽになる気がする。だからこそ、自分なりに“真面目”を受け入れ、活かす道を模索している。

不器用な人間はキャラを変えられない

自分を変えようと努力したこともある。でも、表情ひとつ取ってもぎこちなくなってしまう。冗談を言えば声が上ずり、軽口を叩けば噛んでしまう。不器用な人間には、“キャラ変”は重荷でしかない。結局、背伸びをすればするほど、自分の居場所がわからなくなる。だったら、不器用なまま、真面目なままで、少しずつでも信頼を積み上げていくしかない。

軽さや要領の良さを身につけるのは至難

周囲を見れば、要領のいい人はたくさんいる。手を抜くところを知っていて、うまく世渡りしている。でも、それを見て真似しようとすると、なぜか必ず失敗する。「ズルしてる」と自分が自分を責めてしまうのだ。だから私は、手間のかかる道を選んでしまう。非効率でも、納得感を優先してしまう。それが正しいとは限らない。でも、それが自分だと思う。

真面目もひとつの武器だと信じたい

真面目であることは、損なことも多い。恋愛も、仕事も、世渡りも、何かと不利に働く。でも、それでも誰かの信頼を得たり、少しでも誰かの力になれたりするなら、それは武器になりうるのではないか。少なくとも、自分を偽らずに生きられるという点で、真面目さは強さでもある。そう信じて、今日も地味に、黙々と働いている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。