癒しを仕事に求めるのは間違いなのか
司法書士の仕事には「ありがとう」がある。確かにそういう瞬間はあるんだ。だが、最近は「癒される瞬間」がそれほど多くない。むしろ、疲弊して帰ってきて「もう話しかけないでくれ」と思うことが増えた。若いころは、依頼者の笑顔や信頼を励みにしていた。でも年齢を重ねるにつれ、感情の揺さぶりが重くのしかかってくる。やっとの思いで対応した登記が、感謝どころかクレームに変わる日もある。そうなると、もう仕事に癒しなんて期待するのが間違ってるんじゃないかと思ってしまうんだ。
相談者のありがとうに救われた日のこと
それでも、全部が悪いわけじゃない。ある日、相続登記を終えたご高齢の女性が、深く頭を下げて「本当に助かりました」と言ってくれた。たったそれだけなのに、涙が出そうになった。自分がやっていることが誰かの助けになっている、そう思える瞬間は確かにある。ただ、そういう言葉に出会うためには、山のような書類、不確かな情報、突然の予定変更、怒鳴り声にも耐えなければいけない。ありがとう一つで割に合うかというと…正直、微妙なときもある。
それでも翌日には怒鳴られた電話対応
まるで感謝の記憶を塗りつぶすかのように、翌日には違う依頼者から「なんでまだ終わってないんですか」と怒鳴られた。電話口で謝りながら、心の中では「こっちだって人間なんだ」と叫びたくなる。そんなときに限って、机の上にはややこしい案件が5件重なっている。電話を切った後、ふと膝に飛び乗ってきたのが、うちの猫だった。猫は、私が怒鳴られたことなんて気にもしていない。黙って喉を鳴らして、私の膝に丸くなった。
人の感情に振り回される仕事のつらさ
人間は厄介だ。感情にムラがあるし、正しさより気分で動く。法律を扱う仕事なのに、現場は理屈だけでは割り切れない。こちらがどれだけ丁寧に説明しても、「気に入らない」と感じられたら、それだけで不信感に変わる。そういう対応を続けていると、だんだん人との距離感を保つことが苦しくなる。心の中に鎧を着て、常に防御しながら働いているような気分だ。だからこそ、猫の無言の存在が沁みる。感情をぶつけてこない相手が、今は一番ありがたい。
誰かのためにと思っていたのに
司法書士になった頃は、「誰かの役に立ちたい」という気持ちがモチベーションだった。それが今では「誰も怒らせないように処理をこなすこと」が目標のようになっている。理想が、現実にすり減っていく。このままじゃいけないと思いつつも、日々の業務に押し流されて、なかなか立ち止まることもできない。「誰かのため」って、こんなにしんどいものだったっけ?と、ふと我に返る夜がある。
信頼される重みと裏切られたような気持ち
「先生に任せれば安心です」と言われたとき、胸がぎゅっとなる。期待されていることは嬉しい。でも同時に、ミスが許されないプレッシャーにもなる。信頼されるのは光栄だけど、その重さに押し潰されそうになることもある。そして少しでも希望通りに進まないと、今度は「こんなはずじゃなかった」と責められる。まるで信用が賞味期限付きのように、すぐ消費されていくのがつらい。
事務員との会話すらピリつく日がある
忙しい日が続くと、つい事務員への言い方もきつくなってしまう。彼女には悪いと思っていても、余裕がないと優しさが出てこない。向こうも遠慮してか、最近は会話が最低限になっている。事務所内が静かすぎると、かえって息が詰まりそうになる。ここは癒しの場じゃなく、戦場なんだと実感させられる。そんな空気の中で唯一、自然体で存在してくれるのが猫なのだ。
優しくする余裕がどこかに消えた
誰にでも優しくあろうとした時期もあった。でもそれを続けるには、自分の中にエネルギーが必要だ。最近はそのエネルギーが底をついている気がする。仕事が終わって帰ってきても、もう人と会いたくない。テレビの音ですらうるさく感じて、電源を切って猫とじっとしている。無言でいる時間が、いちばん心が休まる。優しさを出すには、まず余裕が必要なのだと痛感している。
猫が静かに見ている世界
猫は、何も求めてこない。ただ静かに、こちらの様子を見ているだけだ。鳴きもせず、命令もしてこない。ごはんをあげれば喜ぶけど、催促しすぎることもない。人と違って、「察してほしい」とも言ってこない。そういう距離感が今の自分には心地いい。誰かの期待や感情を背負うことに疲れた身には、猫の「ただそこにいる」存在が、何よりの救いになる。
何も言わずにそっと隣にいる存在
ある夜、仕事で大きなミスをしてしまい、放心状態で帰宅した。事務所で何度も謝罪の電話を入れ、胃が痛くなるほど神経を使い果たしていた。ソファに座り込んでいたら、猫がすっと寄ってきて、何も言わずに隣に座った。人だったら「大丈夫?」とか「何があったの?」と聞いてくる。でも猫は何も聞かず、ただ一緒にいてくれた。それだけで、少し涙が出そうになった。
家に帰るとホッとする瞬間がある
事務所を出て、アパートの玄関を開けた瞬間にホッとする。猫が玄関まで迎えに来てくれると、それだけで一日の疲れが和らぐ。誰かと話すのがしんどい日も、猫の存在だけは平気で受け入れられる。仕事のミスや人間関係のもやもやがあっても、猫は知らん顔でゴロゴロと喉を鳴らしている。その無関心さが、逆にありがたくて、救われる。
人間関係の補填としてのペットという現実
「ペットに癒される」なんてよく聞くけど、それはつまり人間関係で消耗している証拠なのかもしれない。理想は、人との関係に温かさを求められることだけど、現実はそううまくいかない。人に期待しすぎて傷つくくらいなら、いっそ期待しない。そうやって距離をとる代わりに、猫が隙間を埋めてくれる。人とぶつからないように生きるために、猫はちょうどいい存在だ。
癒しとは誰かに求めるものではなかった
本当の癒しって、誰かに「癒してくれ」と求めるものじゃなくて、自然に湧いてくる感情なんだろう。猫は何もしない。ただそこにいるだけ。でも、その“何もしない”が今の自分にとってはかけがえのない存在だ。人間関係でヘトヘトになった心を、言葉もなく癒してくれる。それに気づいてから、人に無理に期待することが減った。そして少しずつ、自分の中にも余白が戻ってきた。
無理に頑張ることから少し離れて
「がんばらなきゃ」「信頼されなきゃ」「結果を出さなきゃ」と思っていた日々から、少し距離を置くようにしている。全部を完璧にこなそうとしても、疲れるだけだった。猫を見ていると、頑張らずに生きるってこういうことかもしれないと思えてくる。無理に誰かの期待に応えようとするのではなく、自分のペースで、自分の心をすり減らさないことを優先していこうと思う。
猫を撫でる手にやっと戻ってくる感情
最近ようやく、猫の背中を撫でるときに「癒されている」と素直に感じられるようになった。前まではただ惰性で触っていたけど、今はちゃんと気持ちが動く。人のことを考えすぎて、自分の感情が麻痺していたのかもしれない。仕事ではいろんな顔を使い分けているけど、猫の前では素の自分に戻れる。そういう場所があるだけで、まだこの仕事を続けていける気がしている。
もう少しだけこの仕事を続けてみようと思った夜
全部投げ出したくなる夜もある。でも、猫と静かに過ごす時間があると、もう少しだけやってみようかという気持ちになる。この小さな存在が、私の仕事と心のバランスをなんとか保ってくれている。誰にも言えない弱さも、愚痴も、猫には全部話している。返事はないけど、それで十分だ。司法書士の仕事は簡単じゃないけれど、猫と一緒なら、まだやっていける気がする。