登記申請に現れた見知らぬ依頼者
朝一番の違和感
朝、事務所に入ってすぐ、見慣れない男が待合椅子に座っていた。まだ開業時間前なのに、すでに来ていたということは、それだけ急ぎの用件なのだろうか。男は黒いキャップにサングラス、そして不自然に襟を立てたジャケットを着ていた。まるでルパン三世に出てくるどこかの変装中の登場人物のようだった。「登記の名義を変更したいんです」と、低く抑えた声でそう言った。
依頼内容は至って普通のはずだった
書類一式を確認する。委任状、登記識別情報、身分証——表面上はすべて揃っていた。しかし、何かが引っかかる。言葉にできない違和感が、男の所作や話し方から漂っていた。それでも、登記の依頼内容としてはありふれており、断る理由も特に見つからなかった。
偽名の匂いとサトウさんの眉間のしわ
身分証と委任状の不一致
コピーを取りながらサトウさんが僕の肩越しに呟いた。「これ、微妙に字が違いますね」彼女が指摘したのは委任状に記載された氏名の“藤堂”の「堂」の字。身分証のそれとは微妙に書き方が異なる。普通なら気にしない人が多いだろう。しかし、彼女の眉間のしわが「これは引っかかるやつ」と教えてくれていた。
塩対応からの警告
「このまま進めますか?」サトウさんの冷たい視線が突き刺さる。彼女は仕事には情け容赦がない。僕はうっかり者だが、彼女の“引っかかりセンサー”はたいてい当たる。「一応、前の登記記録を調べてみようか」と僕は提案した。
登記簿の過去を洗い出す
三年前の売買記録
法務局で取得した登記簿謄本には、三年前に所有権移転が記載されていた。前所有者は「藤堂英一」。今回の依頼者も藤堂英一を名乗っている。が、何かが違う。顔写真の感じか、署名のクセか——説明できない違和感。「この人、本当に本人ですかね」と、またもサトウさんが口火を切った。
登記名義人の別人疑惑
本人確認書類には運転免許証が添付されていたが、写真はひどく画質が荒く、コピーされたものだった。しかも裏面の記載がまったくの白紙。通常、何かしらの記載があるはずだ。「これはやっぱり、、、あれだね」と、僕は明言を避けながら口元を歪めた。
シンドウのうっかりが引き寄せた真実
旧所有者との連絡
念のため、前回登記の際に関与した司法書士を調べて連絡を取った。幸いにもデータが残っており、電話で確認が取れた。すると、「え? その藤堂さん、去年亡くなったって聞きましたけど」との返答が。やれやれ、、、また厄介なことになった。胃が重くなるのを感じた。
「やれやれ、、、」の電話口の一言
その司法書士の先生も驚いていた。話を聞いたあと、電話の向こうでしみじみと「やれやれ、、、ですねぇ」と呟いた。僕も思わず「まったくです」と応じた。結局、現れた“藤堂”は別人である可能性が極めて高くなった。これはもう、ちょっとしたドラマじゃないか。いや、サザエさんでは収まらないな。
依頼人の正体と切り裂かれた仮登記
実在しない前所有者の痕跡
過去の登記に“仮登記”の履歴が残っていた。あの時の仮登記は条件付きで、完全な所有権移転ではなかったのだ。つまり、この登記を悪用しようと思えば、元の“名義”だけを再現すれば成立する抜け道があった。これは司法書士にしか気づけない盲点だった。
司法書士しか気づけない矛盾
一般人なら絶対に見逃していたその一点。それが“偽名”と“仮登記”というピースを繋げた。このタイミングで現れた“藤堂”は、他人の名義を利用して利益を得ようとした者だったのだ。「ルパンならもう少し粋な手口だったね」とサトウさんが珍しく茶化した。
すれ違う二人の依頼人
午前と午後の男
同じ日の午後、別の“藤堂英一”が事務所に現れた。顔つきも態度もまったく異なる。サングラスもキャップもしておらず、むしろ神妙な顔で「登記の件でお話が…」と切り出した。完全に別人。午前中の男が偽者だったことがこれで確定した。
声と態度がまるで違う
本物の“藤堂”は、前の名義人の甥だった。亡くなった叔父の遺言執行で、名義変更の相談に来たのだという。「午前中? ええ? 誰ですかそれ」彼の驚き方は演技には見えなかった。登記簿上の“死者”の名前を使って悪用する手口。やはりこれは計画的だった。
裏を取るための現地調査
草に埋もれた古アパート
登記対象の物件は、今は空き家の古アパートだった。現地へ向かうと、草が膝の高さまで伸びていた。ポストにはチラシが溢れ、窓は割れていた。明らかに長く使われていない。これを隠れ蓑に不正登記を狙ったのだろう。
隣人の証言が示す決定打
「今朝ね、変な格好の男が写真撮ってたよ」と隣の家の老婦人が教えてくれた。服装の特徴はまさしく午前中に来た“偽藤堂”と一致する。サングラス、キャップ、そして襟の立ったジャケット。
登記変更の裏にあった目的
遺産隠しと名義差し替え
おそらく本物の藤堂氏が名義変更を依頼する前に、誰かがそれを察知し、不正に所有権を主張しようとした。目的は遺産隠し、もしくは売却して金に換えるつもりだったのだろう。司法書士が“通せんぼ”していなければ、登記上の手続きだけで奪われていたかもしれない。
なぜわざわざ司法書士に依頼したのか
偽者が敢えて僕に依頼したのは、正規の手続きを通したという既成事実を作るためだった。つまり、僕が見逃せば、すべては合法に見える“芝居”になっていたのだ。やれやれ、、、あと少しで大失態を犯すところだった。
最後の証拠とサトウさんの決断
押収された身分証と筆跡鑑定
警察に通報した結果、男は身元不明であったが、所持していた免許証は偽造されたものだった。筆跡鑑定も行われ、委任状の署名が過去のものと一致しないことも判明した。こうして、事件は“未遂”で止まった。
「司法書士は見逃さないものですよ」
その後、警察からの連絡で事件は正式に捜査対象となった。記者からの取材依頼を断ると、サトウさんがポツリと一言。「司法書士は見逃さないものですよ」僕は思わず笑った。やっぱり彼女はすごい。
事件の終息とその後の静けさ
登記簿に刻まれた真実
最終的に、登記は本物の藤堂氏の名で無事に完了した。登記簿には、その正しい記録だけが残った。紙一枚、印鑑一つの重みを再確認することになった事件だった。そして、また次の依頼者がやってくる。
誰かの名前を語ったその代償
あの偽者の正体は結局、明らかにはならなかった。だが、登記簿にはその名は残らなかった。司法書士として守るべきもの。それは、書類の向こうにある「人の人生」だ。今日もまた、塩対応のサトウさんと僕は、書類の山に囲まれている。