一人飯が当たり前になってから気づいたこと
気づけば一人で食べるのが当たり前になっていた
「今日は誰かと食べたいな」と思わなくなって久しい。気づけば、昼も夜も自動的に一人で食事を済ませる日々が続いている。かつては、誰かと一緒にご飯を食べることで、心が少し軽くなったり、愚痴を吐き出せたりしていたのに。今ではその感情すら忘れかけている。司法書士という仕事は孤独と向き合う時間が長い。依頼人と向き合っているはずなのに、自分のことを見てくれる人はいないような気がしてしまう。気がつくと、コンビニのおにぎりを手に、事務所のパソコン前で簡単に食事を済ませる。それが日常になってしまった。
最初は寂しかったはずなのにいつの間にか平気になった
一人飯が増え始めた頃、正直言って寂しさがあった。誰かと食卓を囲むことが、当たり前だった学生時代、特に野球部の合宿や遠征では、わいわいがやがや騒がしくも楽しい時間があった。それが今では懐かしい幻のように思える。最初の頃は「このままでいいのか」と不安もよぎった。でも、それが1年、2年と続いていくと、不思議とそれが“普通”になっていった。人は慣れる生き物だとつくづく思う。寂しさにすら鈍感になるのだ。
誰かと食べたいと思っていた頃の自分
開業して2年目くらいまでは、無理してでも友人や同期を誘って食事に行こうとしていた。気を遣いながらも「繋がっていたい」という気持ちが強かったんだと思う。でも、相手に断られることも増えていき、だんだんと声をかけるのが億劫になっていった。そうすると自然と、誰かと食べるという選択肢が消えていった。今思えば、寂しさに蓋をして、自分で自分を閉じ込めていったようなものだ。
仕事が忙しすぎてそんな余裕がなくなった
特に月末や登記のピーク時期なんかは、もう食事すら「タスク」になってしまう。「腹を満たす」ことが目的で、「味わう」「楽しむ」なんて感情はどこかに消えてしまう。事務員も一人だから、相談もできない。気づけば、作業の合間に立ったままコンビニのパンをかじることもある。それでも、誰かに気を遣うよりは楽かもしれない。そう思ってしまう自分が、少し嫌になる。
一人飯が習慣になると人付き合いがめんどくさくなる
慣れというのは恐ろしい。一人で食べるのが普通になってしまうと、たまに誰かと食事をする機会があっても、逆に緊張するようになってしまった。「どこ行く?」「何食べたい?」そんな簡単な会話すら、めんどうに感じる。そういう自分を見て、少しショックを受けたこともある。でも、それが今の自分の“仕様”なんだろうと思う。変えたくても、変え方がわからない。
「どこ行く」「何食べる」それすら面倒になる
例えば、友人に「今度ご飯でも」と誘われた時。何を食べたいか、どの店がいいか、時間は何時が都合いいか、そんなやり取りだけで気疲れしてしまう。相手は何気ない会話のつもりでも、こちらはそのやり取り一つひとつに“体力”を使っている感覚。こうなると、「もう一人でいいや」となるのも無理はない。情けない話だけど、それが現実。
昔は誰かと食べることで救われていたこともあった
それでも、忘れられない記憶がある。仕事で大きなミスをして落ち込んでいた時、同期の司法書士が黙って居酒屋に連れて行ってくれたことがあった。ビールと唐揚げ、たわいもない会話。それだけで、涙が出るほど救われた。あの時の味とぬくもりは今でも忘れられない。でも、ああいう機会が年を重ねるごとにどんどん減っていった。
仕事終わりのコンビニ飯に感じる安堵と空虚
夜の9時過ぎにようやく事務所を出て、近所のコンビニへ。サラダチキンと缶チューハイを手にレジに並ぶ。レジの女性が「温めますか?」と聞いてくれる。たったそれだけの言葉なのに、妙に優しく感じる。誰とも話さない一日だったから、そのひと言が心に沁みる。家に帰って一人で食べるコンビニ飯。どこかホッとするのに、食べ終わった瞬間にものすごく空しくなる。
レジ横のあたたかい光だけが味方に思える夜
誰もいない駐車場。ぽつんと光るコンビニの看板。その光が、自分を迎えてくれるように感じることがある。大げさかもしれないけれど、そんな気分になる夜が本当にある。街灯すらまばらな地方の町で、夜のコンビニはまるでオアシス。ここでなら、少しだけ自分が「生きてる」と実感できる。そんな夜も、決して少なくはない。
お弁当を温める音が一日の終わりの合図
「チン」という電子レンジの音を聞くと、「今日もなんとか乗り切ったな」と思う。誰にも褒められないけど、自分で自分を労う時間。熱々の弁当を片手に帰る道、誰かとすれ違うこともほとんどない。その静けさが、余計に自分を包んでくる。でも、それが心地よく感じる日もある。人って、孤独とうまく付き合っていかないといけないんだなと実感する。
「お疲れさま」と言われるだけで泣きそうになる
本当にしんどい日には、レジで「お疲れさまでした」と言われただけで、涙が出そうになることがある。言葉なんて、それだけで人を救うんだなと思う。だから自分も、依頼者にはできるだけ声をかけるようにしている。「大丈夫ですよ」「安心してください」そんなひと言が、誰かの心を支えることがあると、自分が身をもって知っているから。
一人飯でふと湧いてくる自分への問いかけ
コンビニのビニール袋を開けながら、「このままでいいのか?」と考える瞬間がある。けれど、答えは出ない。変えたいような、変えたくないような。そんな曖昧な気持ちを抱えながら、また次の日も一人で飯を食う。ふと窓に映る自分の姿を見て、「老けたな」とつぶやいた。
このままでいいのかと考えても答えは出ない
「結婚しないの?」と聞かれることもあるが、そんなの自分でもわからない。ただ、誰かと一緒に暮らす生活が想像できなくなってきているのは事実だ。寂しいけど、それが現実。どうやって人生を軌道修正すればいいのか、答えはいつも煙のように逃げていく。
でも誰かと食べるのも少し怖くなってきた
誰かと食べること自体が、今の自分にはちょっとした「ハードル」になってしまった。相手にどう思われるか、自分がどれだけ老け込んだか、そういう余計なことばかり考えてしまう。そんな自分がまた嫌になる。でも、だからといって一人が楽しいわけでもない。この感情の中間地点に、どう向き合えばいいのか。模索の日々だ。
それでも今日も一人で食べるという選択
結局のところ、一人で食べるという選択を、今日も自分はしている。誰にも気を遣わず、好きなものを好きな時間に食べる。ただそれだけで十分だと思いたい。でも、本当は誰かと「おいしいね」と言い合う時間が、また欲しくなってきている自分がいる。
自由ではあるけど不自由な一人飯
確かに、一人飯は自由だ。食べたい時に食べ、好きなものを選び、誰にも文句を言われない。でもその自由の裏には、ふと訪れる“無音”の時間がある。その無音に包まれて、どこか不自由さを感じる。誰かがいるという煩わしさと、いないという孤独。その間で揺れている。
誰にも気を遣わなくていい気楽さ
人に気を遣うのが苦手だ。ましてや食事の場では、どうしても気を張ってしまう。だから一人で食べることは、ある意味で自分を守る手段でもある。気楽ではある。でも、その気楽さが習慣になったとき、人との距離は確実に遠のいていった。
でも会話が恋しくなる瞬間もある
テレビの中の人が笑っている。YouTubeの配信者が飯を食べながら喋っている。それを見て、自分も誰かと話しながら食事がしたいと思う。そんな瞬間が、ふいに訪れる。会話のない食事が、こんなにも無音なのだと気づいた夜、思わず声に出して独り言を言ってしまった。
一人飯が教えてくれた自分との向き合い方
一人飯は、嫌でも自分と向き合う時間を与えてくれる。好きなものを選ぶ自由もあれば、心の空白に気づくきっかけもある。孤独を「敵」にするのではなく、「相棒」として受け入れてみる。そんなふうに思えるようになってきた自分が、少しだけ愛おしい。
静けさの中に見つけたささやかな安心
誰もいない台所。湯気の立つ味噌汁。カチャカチャと響く箸の音。その静けさが、今の自分にとっては心地よい。誰かと分かち合う時間もいいけれど、こういう時間もまた、悪くはないのかもしれない。そんなふうに、自分を少しずつ許していけるようになった。
誰かと分け合う幸せをもう一度信じたい
それでもいつか、もう一度誰かと食事をしながら、「これうまいね」と言い合える日が来たらいいなと思う。無理に探さなくても、自然とそんな出会いがあればいい。今はまだその途中。今日もまた一人飯。でも、心のどこかで、誰かと分かち合える未来を、少しだけ信じている。