君が誰かの苗字になった日
昼休みにスマホを見たら通知が一件だけ届いていた
司法書士としての業務に追われる毎日。昼休みといっても、事務所でカップラーメンをすすりながらメールチェックをするのが関の山だ。そんなある日、スマホにポツンと通知がひとつだけ届いていた。差出人は、大学時代の友人グループのLINEだった。いつもは誰も発言しない、年に数回しか動かないそのグループに、久々の動きがあった。なんとなく開いたその画面には、数枚の写真と、簡潔な一文。「○○ちゃん、結婚しました!」という報告。瞬間、口の中のカップ麺の味が消えた。
まさかの名前に心臓がひとつ跳ねた
通知の最初の文字列に、懐かしい名前があった。大学時代に好きだった人。思いを告げることもできず、ただ一緒にゼミ旅行へ行っただけの、淡くて静かな片想いだった。LINEの写真には、白いドレス姿の彼女と、新郎らしき男が映っている。男は誰だろう? どこかの社長か、あるいは医者か? 妄想が勝手に走る。笑顔の彼女を見て、思わずスマホを伏せた。心臓が軽く跳ねたあと、何とも言えない静けさが残った。
あの頃を思い出すときに出る苦笑い
大学時代、僕は野球部の幽霊部員だった。練習にはたまに顔を出しつつ、講義には真面目に出ていたが、恋には奥手で、「あの子、いいな」と思っても一歩も踏み出せないタイプだった。彼女が風邪をひいたと聞いたとき、コンビニで買ったポカリとカロリーメイトを、ゼミの机にそっと置いた。名前も書かずに、ただ置いただけ。そんなことを思い出して、ひとりで苦笑いする。情けないような、いとおしいような、遠い記憶。
元野球部の俺は告白なんてできなかった
キャッチボールのボールは投げられても、気持ちは投げられなかった。仲間には「ガッツがある」と言われていたくせに、肝心な場面ではいつも見送ってばかりだった。彼女がサークルの飲み会で他の男と仲良くしていても、ただ見てるだけ。試合で三振するより、そっちのほうがずっと悔しかった。けれど、当時の僕には、それをどうにかする力がなかった。それが現実で、それがずっと心の隅に残っていた。
同級生グループのLINEでまわる幸せの報告
最近になって、結婚報告や出産報告がぽつぽつと増えてきた。特に女性陣の動きが早い。同級生のひとりはもう三人の子どもがいるらしい。「幸せそうでなによりだね」って言葉を誰かが打って、スタンプが並ぶ。自分もそれに習って、当たり障りのないハートのスタンプを送る。指が勝手に動いて、感情は追いつかない。
「おめでとう」が素直に言えない自分
結婚って、素直に「よかったね」と言えるときと、言えないときがある。別に未練があるわけじゃない。だけど、心のどこかがギュッと締めつけられる。「おめでとう」って入力しては消して、結局スタンプに逃げた。何なんだろう、この気持ち。タイムラインの向こうでは、誰かの人生がちゃんと進んでる。なのに、俺の時間だけ止まっている気がした。
画面の中の笑顔がまぶしすぎた午後
あの笑顔は、確かにあの頃と同じだった。けど、僕の知らない誰かの隣に立っている。それが現実なんだ。昔のアルバムを開くように、何度も写真を見返してしまう自分がいた。午後の予定が手につかず、登記書類のチェックもミスをしかけた。さすがに気を取り直したが、それでも心のざわつきは消えなかった。
司法書士としての落ち着きはどこへやら
司法書士なんて仕事をしていると、いつの間にか「感情を抑える訓練」が身についている気がする。相続登記で揉めている家族の前でも平静を装い、婚姻届の証人欄に記入するカップルを見ても何も感じないようにしてきた。けれど、今日はダメだった。あの通知一件が、全部のバランスを崩してしまった。
法務局帰りの車内で深いため息
午後の予定で法務局に向かう道中、車の中でひとり、意味もなくため息をついていた。ラジオでは明るい音楽が流れていたが、耳には入ってこない。「俺、何してんだろうな」と、声に出してつぶやいた。助手席にはいつも通り誰もいない。ただの独り言に、余計にむなしくなった。
「未練」も登記できたら楽なのになと思った
たとえば「未練登記簿」というものがあって、「これは正式に終わった感情です」と登記できたらどれだけ楽だろう。あるいは「心情の清算登記」でもいい。なんなら「後悔抹消登記」とか。司法書士という職業は、物理的な権利関係には強いが、心の整理には何の役にも立たないんだと改めて思った。
仕事の忙しさと孤独のバランス感覚
日々の業務は忙しく、事務員さんと世間話をする暇もない。それなのに、なぜか孤独感は拭えない。仕事があるだけマシなのはわかってる。でも、仕事に没頭しているうちに、人生がどこか遠くへ流れていく気がするときがある。ふと、こうして振り返る時間がいちばん胸にくる。
頑張ってるのに報われない感じがする日
地元で事務所を開いて十数年、登記や相続や後見の仕事を丁寧にこなしてきたつもりだ。でも、そういう地道な努力って、誰にも見えないし、誰からも褒められない。疲れた日は、頑張っていること自体がむなしく感じる。恋愛も家庭も持たず、ただ働いてきたことに、急に後悔のような気持ちが湧いてくる日もある。
事務員さんに話すことでもないし
そんな気持ちを、事務員さんに愚痴るわけにもいかない。彼女は彼女で日々、懸命に働いてくれているし、仕事の愚痴はあっても、個人的な感情は持ち込めない。そうなると、自分の心の行き場がどこにもなくなる。誰にも見せられない部分って、どんどん溜まっていく。
モテない男の未練は居場所がない
モテる男なら、こんなことで悩まないのかもしれない。僕みたいなタイプは、未練ひとつ処理するにも時間がかかるし、吐き出す場所もない。ただ、こうして文章にしてみることで、少しだけ整理がつく。未練には、居場所が必要なんだ。たとえ一時的にでも。
あの人が選んだ人生と俺の選んだ人生
結婚報告を見たとき、「ああ、俺の人生とは違うルートを選んだんだな」と実感した。あの人は幸せそうだし、きっといい人生を歩むだろう。俺の人生が間違っているわけじゃないけど、「別の可能性」は確かにあった。そういうことを考えられるのも、今だからかもしれない。
司法書士としての誇りはあるけれど
この仕事が嫌いなわけじゃない。むしろ誇りを持っているし、人の人生に関わる重みも感じている。けれど、感情をどこかに置き去りにして進んできたのは事実だ。いろんな登記はしてきたけど、自分の感情には印鑑すら押してこなかったのかもしれない。
それでも時々ふと羨ましくなる瞬間がある
誰かと寄り添って笑っている写真、子どもと公園を歩いている家族、そういうものを見て、ふと「いいな」と思う瞬間がある。それは嫉妬でも羨望でもなく、ただ「そういう生き方もあったんだな」という静かな実感。そんなふうに少しずつ、自分の気持ちにも登記できたらいいのになと思う。