気づけば感情の置き場所をなくしていた
司法書士という仕事は、感情を込める場面があまりない。むしろ、冷静に、正確に、淡々と事務処理をこなすことが求められる。依頼者の事情がどれほど複雑でも、こっちが感情を引きずってはいけない。それが積み重なると、ふとしたとき、自分の中から喜怒哀楽の「楽」だけがごっそり抜け落ちたような感覚に襲われる。ある日、仕事終わりに空を見上げても、夕焼けがきれいだと思えなかった。そのとき初めて「あれ、俺、いつから何も感じなくなったんだろう」と気づいた。
仕事に追われて心が追いつかない
朝から晩まで依頼書類、登記申請、相談対応。終わったら明日の準備。事務員さんには助けてもらっているけれど、それでも山のように仕事は残る。忙しさにかまけて、感情なんて後回しだ。うれしいことがあっても、それをかみしめる暇なんてない。むしろ「感情なんて余計なもの」と思っていた。元野球部のクセか、痛みも疲れも無視して走ることに慣れてしまっていた。
一日が終わるとただ眠るだけ
帰宅して飯をかきこんで、風呂に入って、そのまま布団に倒れ込む。テレビも音楽も頭に入ってこない。ただのルーティン。感情を使う余裕がないまま、「おやすみ」も「今日もお疲れ」も自分に言えない。生きてるのか、動いてるだけなのか、区別がつかなくなる。土日も結局、帳簿や未処理の案件に目を通している。これでいいのか?と問う声すら、自分の中から聞こえなくなっていた。
誰かと話しても「業務報告」しかしてない
事務員さんとの会話も、ほとんどが業務連絡。無駄な雑談をしてる場合じゃない、と自分に言い聞かせていた。でもそれって本当か?昔はもっと、くだらない話や笑える失敗談を誰かに話すのが好きだったはずだ。今は「今日は○○件片付けました」で終わってしまう。自分が無機質な「報告マシン」になってしまったようで、ぞっとする瞬間がある。
感情をしまい込むクセができた理由
気がつけば、悲しみも怒りも、全部「仕事の邪魔だ」としまい込むようになった。司法書士という職業柄、感情に流されてはいけないという意識がある。でもそれは、感情を持ってはいけないということじゃない。だけど、そう思い込んで長年やってきた結果、気づけば心の引き出しを封印するクセがついてしまった。
元野球部気質の「我慢は美徳」
高校時代、監督に「痛いって言うな、走れば治る」と言われてきた。そんな教育が根付いているのか、今でも「弱音を吐いたら負け」と思ってしまう。だから多少きつくても、「まあこれくらい」と自分に言い聞かせる。でも我慢しすぎると、ある日、堤防が決壊する。感情も同じで、溜め込んだままではどこかで破裂する。昔の仲間に会ったとき、何気ない一言で涙がこぼれそうになったのが、そのサインだった。
ミスを見せたくない気持ちとの葛藤
依頼者の信頼を裏切りたくない。だからこそ、ミスは絶対に避けたい。そう思うあまり、自分の中の動揺や不安を表に出せなくなった。でもそれって、弱さを隠す演技じゃないか?と最近思う。感情を出すことは、信頼を失うことではない。むしろ、正直に「不安だ」と言えることの方が、人として誠実なんじゃないかと、少しだけ思えるようになってきた。
怒りも悲しみも「処理すべき案件」に変えていた
腹が立ったこと、悔しかったこと、全部「案件」として処理するクセがついていた。感情じゃなくて、作業。そうすれば消化できると思っていた。でも、心は消化器じゃない。ちゃんと向き合わないと、いつまでも奥に澱のように残り続ける。ある日、ふと読み返したメモに「もう疲れた」と走り書きされていた。その文字を見て、ようやく自分が自分を見失っていたことに気づいた。
独りでいることに慣れすぎたのかもしれない
気づけば、誰かと深く話すことがなくなった。用事がない限り、電話もしないし、会いにも行かない。人間関係のストレスは減ったけど、心を通わせる機会もなくなった。楽になったようで、どこか寒々しい。独身でいることを後悔しているわけではないけど、「ただの慣れ」が孤独を正当化してる気がして、少し寂しい。
人に頼るのが苦手なまま年を重ねて
頼ることは迷惑をかけること。そう思ってきた。でも、最近は逆かもしれないと感じるようになった。誰かに「助けて」と言われたら、むしろうれしいと思える自分がいる。じゃあ、自分が頼ることも、誰かの役に立つことなのかもしれない。そう考えられるようになったのは、年齢のせいか、少しだけ心がほぐれてきたからかもしれない。
忙しさにかまけて心の声を聞かなくなった
やらなきゃいけないことをこなすだけで日々が過ぎる。その中で「自分はどうしたいのか」「どんなときにうれしいと感じるのか」なんて考えなくなっていた。気がつけば、自分の感情がどこにあるのかさえ、わからなくなっていた。まるで、ずっと着けていた手袋のせいで、素手の感覚を忘れてしまったような感覚だ。
ふとした瞬間にこみあげてくるもの
何も感じないフリをしていても、感情はどこかに残っている。コンビニの店員さんの一言や、昔聴いていた曲、何気ない風景に、不意に涙がこみあげてくるときがある。押し込めてきた想いが、ふとした拍子に顔を出す。それを否定せず、「ああ、まだ自分にも感情があったんだ」と思えたとき、少しだけ救われた気がした。
コンビニのレジで優しくされて泣きそうになる
ある日、夜遅くコンビニに寄った。疲れ果てた顔をしていたんだろう。「お疲れさまです」と言われて、涙が出そうになった。たったそれだけの言葉。でも、自分の存在を認められた気がして、胸がじんとした。人の優しさって、こんなに響くものなんだと、そのとき初めて知った。
依頼者の「ありがとう」で心がほどける
普段は事務的なやり取りが多い。でも、たまに依頼者の方から「ほんとうに助かりました」と丁寧にお礼を言われると、心がふわっと軽くなる。その瞬間だけは、しまい込んでいた感情がゆっくり溶けていくような気がする。やっぱり、自分も感情でできた人間なんだなと実感する。
もう少し自分を許してもいい
これまで、感情をしまい込むことが正しいと思っていた。でも、少しずつ「出してもいい」と思えるようになってきた。無理に笑わなくてもいいし、疲れたら休んでもいい。感情に振り回されるんじゃなくて、ただ共にあるだけでいい。そう思えたとき、自分が少しだけ軽くなった。
感情は敵じゃなくて、味方かもしれない
怒りも悲しみも、不安も喜びも、全部が自分を動かすエネルギーになる。その感情を抑え込むんじゃなく、活かす方が、長い目で見れば仕事にも人生にもプラスになるのかもしれない。最近は少しずつ、自分の心の声に耳を傾けるようにしている。
無理やりしまわなくても仕事は回る
感情を隠したからといって、仕事が完璧になるわけじゃない。逆に、自分の気持ちに少し素直になった方が、周囲とのコミュニケーションもスムーズになる。事務員さんにも「先生、最近ちょっと柔らかくなりましたね」と言われた。たぶん、しまい込んでいた感情を少し外に出せるようになったからだろう。