仕事の山と静まり返った事務所
夕方になると、世間は「お疲れさま」の雰囲気が漂い始める。しかし、地方の片隅で司法書士をしている私の事務所では、そんな空気はまるで感じられない。事務員は定時で帰る。私はというと、山のように積みあがった書類とにらめっこを続けている。電話も鳴らず、来客もない。時計の針だけがカチカチと進んでいく音が、やたらと大きく聞こえる。誰もいない事務所で、残された仕事と向き合う時間。それは孤独というより、少し怖さすら感じる静けさに包まれている。
夕方を過ぎると急に静けさが増す
街全体が「今日も終わったな」と息を抜く時間帯、事務所だけはぽつんと取り残されているように感じる。隣の店舗もシャッターを下ろし、外からの音も途絶える。人の気配が消えた世界に、自分だけが取り残されている。机の前で書類を広げても、集中力が続かない。ふと立ち上がってお茶を淹れても、それを飲む相手も話す相手もいない。ただ、溜息だけが響く。昼間は仕事に追われて気づかなかった空虚さが、日が暮れるにつれてじわじわと迫ってくる。
人の気配がないと余計に孤独が膨らむ
電話も鳴らない。来客もない。パソコンのファンの音だけが部屋に鳴り響く。そんな時間が続くと、だんだんと人と話したいというより「誰かここにいてくれ」と願ってしまう。子どもの頃、家で留守番をしていたときの心細さがふと蘇る。歳をとると孤独に慣れるどころか、むしろ重みが増していくのかもしれない。自分がこの空間の唯一の存在であるという感覚が、思っている以上に精神を削っていく。
電話のコール音が妙に響く瞬間
そんな静けさの中、たまに鳴る電話のコール音が異様に大きく感じる。誰だろうと思って取っても、営業の電話だったり、間違い電話だったりする。それでも、その「誰かからの接触」が少し嬉しかったりもするのだから、自分でも情けなくなる。声を聞けるというだけで安心する。どれだけ孤独が身に染みているのか、自分の反応がそれを教えてくれる。
誰にも聞かれないことをいいことに
一人の空間でふと我に返ると、自然と声を出して独り言を言っている自分がいる。誰かに話しかけるように、でも返事は当然ない。だから愚痴になる。声に出して言わないとやってられない。こんなこと、昔はなかったはずだ。気づけば愚痴の対象も漠然としていて、何に怒ってるのか、何に困っているのかもわからなくなってくる。それでも、言わずにはいられない。
つい声に出してこぼす本音
「もう帰りたいな」「今日なんでこんなに多いんだよ」「誰か手伝ってくれよ」そんな言葉がポツポツと口から漏れる。愚痴というより、叫びに近い。声に出すことで、少しだけ気持ちが楽になる。でも、その声を聞いてくれる人はいない。それがまた虚しさを呼ぶ。でも言わずにはいられない。誰にも遠慮しないで言える時間が、深夜の事務所にだけ許されている。
「もう帰りたい」「なんで俺だけ」
この言葉が、何度頭をよぎったことか。事務員は帰っている。知り合いも家族も、もう家でくつろいでいる時間だ。なんで自分だけ、こんなに働いてるんだろう。報われているのか?いや、そんな実感はない。ただ、自分で選んだ道なのだということだけが、ブレーキのように働いてくる。やめられない。誰かのためになることをしているのに、こんなに苦しいのはなぜだ。
独り言なのか、誰かに届いてほしいのか
誰にも届かないと分かっていながらも、つぶやいてしまうのは、やはりどこかで「誰かに気づいてほしい」という気持ちがあるからかもしれない。SNSに投稿するでもなく、ただ声に出して言うだけ。でもそれは、自分に向けているようで、世界のどこかにいる同じような誰かに届けたい言葉でもある。そんな矛盾した気持ちを抱えながら、また独り言がひとつ、事務所に響く。
優しさと愚痴は同居する
人には優しくありたい。でも、自分の中にたまるものはたまる。だから愚痴になる。表面上はにこにこしていても、心の中では叫んでいる日もある。誰にもあたれない分、自分の中に溜め込みやすい性格だということは、自分でも分かっている。たぶん、他の司法書士さんたちにも、同じように人には見せない疲れや苛立ちを抱えてる人がいるんじゃないかと思う。そう思うことで、少し気持ちが和らぐ。
人には強く当たれないけど
どれだけ自分がしんどくても、事務員に当たることはできない。たまに「なんで今日休みなんだよ」と思う日があっても、口には出せない。むしろ「ちゃんと休めてよかった」と思ってしまう。だからこそ、自分に全部跳ね返ってくる。優しさが自分を苦しめるというのは、こういうことなのかもしれない。性格を変えようとは思わないけど、せめて吐き出す場がほしいと思う。
自分には容赦がないこの性格
「もう少し適当にやってもいいんじゃないか」と言われたことがある。でもそれができない。自分にだけは厳しくいたいという思いがどこかにある。きっと、真面目すぎるんだろう。それで報われているならまだしも、誰も気づかない。評価もされない。だからこそ、孤独の中で愚痴になってしまう。でも、やっぱり手を抜けない。それが自分だと、もう諦めている。
気づけば愚痴が増える年齢に
若いころは「愚痴なんてダサい」と思っていた。でも今は違う。気づけば口癖になっている。年齢を重ねると、夢や希望よりも現実の苦さのほうが勝ってくる。理不尽なことも、見過ごすしかないことも、たくさんある。そんな中で、自分の中に溜まったものを言葉にすることで、かろうじてバランスを取っている。愚痴もまた、生きている証だと思うようになった。