三連休の始まりが怖くてたまらない
世間が浮き足立っている金曜日の夕方、私は事務所で机に向かいながら、気持ちが沈んでいくのを感じていた。みんなが「三連休ですね〜」と嬉しそうに話しているのをよそに、自分だけ取り残されたような気持ちになる。休めるはずの三連休が、むしろ恐怖に変わっていく。仕事を離れてしまうと、逆に心が不安定になるタイプなのかもしれない。誰にも連絡する予定もなく、何かのイベントに誘われることもない。ただ時間だけが静かに流れていく。それが怖い。
「休めるはず」の期待がむしろプレッシャー
三連休が近づくと、「せっかくの連休だし、何か有意義なことをしなきゃ」と変なプレッシャーに襲われる。旅行に行く予定もない、会う人もいない。せめて本でも読もうか、映画でも観ようかと考えるが、気づけばYouTubeのショート動画をぼーっと眺めて1日が終わっている。そんな自分に腹が立つし、情けなくなる。以前、三連休中に「登記簿の誤字を見直す」という名目で事務所に出たことがある。結果、何もしなかったが「出社した」という事実だけが心の安定になった。これはもう末期だろうか。
人と会う予定がないときの不安感
連休前に「この三日間、誰とも口をきかずに終わるんじゃないか」という不安が襲ってくる。普段は仕事の電話や役所とのやり取りで人と話す機会があるが、休みの日にはそれすらない。土曜の昼、コンビニでレジの店員さんに「温めますか?」と聞かれたのが、唯一の会話だったこともある。人恋しさと恥ずかしさが混ざったような、説明しづらい孤独がじわじわと胸に迫ってくる。
誰かに「今日何してたの?」と聞かれる恐怖
連休明け、軽い雑談の中で「休みはどう過ごしました?」と聞かれる瞬間が、地味に恐怖だ。特に予定もなく、誰にも会わず、何もしていなかったことを正直に話せるわけがない。だから「掃除とか溜まってた本とかですね〜」と適当な嘘をつく。でもその嘘が虚しい。心のどこかで「自分は何をやってるんだろう」と思ってしまう。誰に責められたわけでもないのに、自己嫌悪だけが積み重なる。
仕事の遅れを取り戻すための三連休
「せめて仕事でも進めておこう」と思って、結局、事務所に足を運ぶ三連休。鍵を開けて静かな部屋に入ると、妙に落ち着く自分がいる。これが逃避なのか、習慣なのかはわからない。だが、パソコンを立ち上げてもメールは来ないし、電話も鳴らない。完全に静まり返った時間の中で、何をしていいかわからなくなることもある。
机の前にいるのに進まない焦り
「今日は2件、完了報告書を作る」「登記の下書きをまとめる」と目標を立てても、結局やる気が起きず、机の前でうだうだしてしまう。気づけば資料を眺めるだけで2時間経っていることもある。進まない自分に焦り、でも誰にも迷惑はかけてないと自分を慰める。昔はこんなじゃなかった。野球部だった頃、毎日声を出して汗を流していたあの頃は、何かやりきった実感があった。今は“自分と戦う”という不毛な時間が延々と続く。
外は晴れでも自分の中はどんより
三連休に限って天気がいいのも腹が立つ。快晴の空の下、家族連れやカップルが楽しそうに歩いている姿を見かけると、完全に置いていかれた気分になる。以前、日曜の昼にスーパーへ行ったとき、子どもと買い物をしていた同級生にバッタリ会った。相手は笑顔だったが、こちらは完全に気まずくて、意味もなくマスクを深くかぶり直した。誰にも会いたくない。外が明るいほど、心は曇っていく。
周囲とのギャップに気づかされる瞬間
三連休中のSNSは地雷だ。旅行、グルメ、ライブ、アウトドア。「こんなにもみんな人生を楽しんでるのか」と思ってしまう。もちろんSNSは切り取られた一面にすぎないとわかっている。それでも、比較してしまうのが人間だ。独身、友達も少ない、モテない。そういった事実が連休によって浮き彫りになる。
SNSに映る“楽しそうな休日”との対比
Instagramに流れてくる友人の投稿。海辺で乾杯する写真、子どもの笑顔、キャンプ場の夜景。そんな投稿を見てしまうと、自分がただ部屋でカップ麺をすすっている現実が急にみじめに感じる。ある日、「もうSNSなんか見ない」と決めたはずなのに、気がつくと手がスマホに伸びている。まるで自傷行為のように。そんな自分がますます嫌になる。
「休みは何してました?」の社交地獄
三連休明けの月曜、役所や銀行の担当者との世間話が地味につらい。「どこか行かれました?」と聞かれて、咄嗟に嘘をつく。「ちょっと実家に顔を出してまして」と言ってしまったこともある。嘘をつく自分もイヤだが、正直に「家で寝てただけです」とは言えない。こんな些細なやりとりにも、疲れてしまう。
孤独と向き合う三日間の使い方
三連休は、言い換えれば孤独と正面から向き合う三日間でもある。普段は忙しさで誤魔化している感情が、ふいに顔を出してくる。人恋しさ、寂しさ、将来への不安。だからと言って誰かに連絡するわけでもなく、結局は自分の殻に閉じこもってしまう。逃げ場のない時間、それが三連休だ。
友達がいない現実を突きつけられる
LINEの通知が一件も鳴らない。飲み会の誘いもなければ、雑談すらない。以前は職場の同期と年に数回は会っていたが、それもいつの間にか途絶えた。連絡を取ろうにも、何を話せばいいかわからない。こうして人との縁は、ゆっくりと消えていくのかと不安になる。何気ない会話が、実はとても貴重だったことに、今さら気づく。
独身であることを再確認してしまう
三連休は、自分が独身であることをこれでもかと突きつけてくる。家族サービスをする同級生、夫婦で出かける知人。みんな当たり前のように誰かと過ごしている。ふと「このまま一人だったらどうなるんだろう」と考えてしまう。普段は考えないようにしている“老後”が、やけにリアルに感じられてしまう日がある。
寂しさからAmazonの買い物が止まらない
「連休中に何か一つくらいは楽しいことを」と思い、ついついAmazonでポチる。炊飯器、折りたたみ傘、USB扇風機。必要だったかどうかはもはや関係ない。物が届くという期待感で、孤独をまぎらわせようとしているだけだ。けれど、届いた瞬間にテンションが落ちる。「これ、いらなかったな」と気づく。その繰り返しだ。
三連休明けの感情がさらに辛い
連休が終わってもスッキリしない。むしろ疲れている。何もしなかったことへの後悔、無駄に過ごしたという罪悪感。たとえ忙しくても、仕事がある平日の方が気が楽だ。三連休は“休み”であって“癒し”ではないのかもしれない。
誰とも話さずに終わる三日間の虚無感
本当に、誰とも話さずに終わった三連休がある。話しかける相手がいないという事実が、想像以上に心にくる。声を出さないと、人は気持ちが塞ぐのかもしれない。月曜の朝、久しぶりに「おはようございます」と言ったとき、喉が少しつまった気がした。
やる気が戻らず業務に追われる月曜日
三連休明けの月曜は、リズムが崩れてやる気が出ない。それなのに、たまっている仕事は待ってくれない。週明けにいきなり完了報告書の提出、顧客対応、事務員さんからの質問攻め。気づけば昼飯を食べるのも忘れている。こんなにしんどいなら、もう三連休なんてなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。
それでも三連休に救われることもある
全否定ばかりではない。三連休の中で、ふと心がほぐれる瞬間もある。何もせずにぼーっとしていた時間が、実は自分を守っていたのかもしれないと思うこともある。たった一通のLINE、一杯のコーヒー、空の青さ。そういった些細なことに、救われる日もある。
心がふと緩む瞬間があるから続けられる
連休最終日の夕方、事務所に寄って掃除をしていたとき、ふと「また明日から頑張るか」と思えたことがある。大きなことが起きなくても、小さな切り替えの積み重ねが、今の自分を保っている。そう考えたら、三連休の怖さも少しは和らぐ気がした。
本音を言える相手がいるかどうか
もし一人でも、本音を話せる相手がいたら、三連休は怖くないのかもしれない。事務員さんとは仕事の話ばかり。地元の友人とは、年に一度会えばいい方。だからこそ、「本音で話せる人」の存在は大きい。たとえLINE一通でも、それがあるかないかで、孤独感は大きく変わる。
結局は「孤独と共存」していく道
結局、三連休が怖いのは孤独と向き合う時間だからだろう。でも、その孤独とどう付き合うかが大事なのだと最近ようやく思えるようになってきた。完全に埋めようとせず、時に受け入れて、時に工夫して過ごす。それが、司法書士という孤独な仕事を続けていくための、ささやかな術なのかもしれない。