アクセルを踏むたびに心が遠のく
朝、事務所に向かう車の中で、ふと気づくと何も考えていない時間がある。ただ前の車との車間距離を保ち、赤信号ではブレーキを踏む。それだけ。何かを感じていたはずの自分はどこかに置いてきたみたいだ。ラジオの音も、流れる景色も、頭に入ってこない。そんな自動運転のような時間が、いつからか日常になってしまった。
エンジン音とともに始まる感情のシャットダウン
エンジンをかけた瞬間から、どこか自分の心のスイッチも切り替わるような気がする。今日は何件の電話が来るだろう、相続の書類は片付くだろうか――そんな不安と予定が頭を占めている。だけどそれ以上に、無の時間を過ごす癖がついてしまった。エンジンの音は日常の始まりを告げる合図ではなく、思考を止める合図になってしまった。
ラジオも音楽も届かない朝
昔は好きだった音楽も、今ではただの音にしか聞こえない。FMラジオで流れる朝のニュースも、脳に入ってこないまま通り過ぎていく。「何かを感じる余裕」が、自分の中から削れてしまっている。イヤホンから流れる曲も、まるで他人事。まるで自分が透明人間にでもなったような、そんな感覚で朝の道を走っている。
渋滞ではなく自分にイライラしている
前の車が遅いわけでもなく、道が混んでいるわけでもないのに、なぜかイライラすることがある。そのイライラの正体は、他人じゃなくて自分に向いていることが多い。「また今日も頑張れないまま仕事に行くのか」と、自分に苛立っている。誰かに怒っているわけでもなく、ただ虚しさと焦燥感が、ハンドルを握る手をじっと重くしている。
無意識に職場へ向かう毎日の中で
気づけば、毎朝同じコンビニの前を通り、同じ坂を登り、事務所の前の道に入る。何も考えずとも運転できるくらいに染みついたルート。でも、問題なのはその「何も考えていない状態」が、だんだんと心の余白を削っていくことだ。かつては好きだった町の景色も、今ではただの背景でしかない。
通い慣れた道が景色に見えなくなる瞬間
司法書士を始めた頃は、出勤の途中に見える田んぼや山々が妙に落ち着いて、「今日も頑張ろう」と思えた。だけど、今はそれすらも意識に上ってこない。ただただ、無機質な視界。忙しさが当たり前になりすぎて、感情を感じる回路がどこか詰まっているようだ。何のためにやっているのかすら分からなくなる瞬間が、増えてきている。
信号待ちでぼんやりと空を見上げる
ふと信号待ちで、空を見上げてみることがある。晴れているのに、心の中は曇っているような、そんな朝。青空すら心に届かず、ただの色にしか見えない。空を見て「きれいだ」と思える感覚すら、最近はなくなってきた。これは、疲れているということなのか、それとも…ただ老け込んだだけなのか。
このままどこかに逃げたいと思う自分がいる
信号が青になっても、発進したくないと思ってしまうことがある。今すぐUターンしてどこか遠くへ行ってしまいたい。携帯も事務所も全部放り出して。そんなことはしないし、できないのもわかっている。でも、そう思うだけで少しだけ自分の中の「逃げる」という選択肢が、現実味を帯びてしまうのが怖い。
司法書士としての責任が重くのしかかる
この仕事には、想像以上のプレッシャーがある。依頼者の人生の節目に関わる責任。登記一つの間違いで信頼を失い、賠償問題にもなる。わかってはいる。だからこそ、自分を押し殺してでも仕事に向かう。でも、その「押し殺す」が積もり積もって、感情の在処がわからなくなる日もある。
「ちゃんとやらねば」が肩に乗っている
「先生」と呼ばれることに慣れはしたが、好きにはなれない。ちゃんとしなきゃ、間違えちゃいけない、信頼されなきゃ――そう思えば思うほど、動きが固くなる。野球部の頃の「プレッシャーに打ち勝て」という精神論じゃ通じない。打席に立つ勇気はあったけど、今は書類に立ち向かう気力がない。
たった一つのミスが人生を狂わせる仕事
実際、登記を一行書き間違えただけで、全体がやり直しになることがある。しかもそれが登記官の気分次第だったりもする。依頼者には関係のない話だが、その裏ではこちらの胃が痛くなるような調整を何度も繰り返している。見えないところで何度も修正し、誰にも褒められず、ただ「当然」とされる。
誰にも見せられないプレッシャーの正体
たまに事務員が「先生、元気ないですね」と気づいてくれることもある。でも、元気がないのではなくて、感情を感じないのだと説明しても伝わらない。それが正解かもわからない。責任感がある人ほど潰れていく。そんな世界で、今日も自分はハンドルを握る。そしてまた、エンジン音とともに感情を沈めていく。
それでも車に乗り込む理由
そんな朝が続いても、やっぱり車に乗り込む。どれだけ虚無でも、どれだけ重くても、ハンドルを握る手は止めない。司法書士という職業をやめる選択肢は、今のところまだない。自分なりの「役目」だと思っているから。誰かの役に立てる日が、たまにあるから。
逃げ出さないための小さな誇り
情けないけれど、少しだけ自分を誇りに思う瞬間もある。「今日もやりきったな」と夜に思える日は、たまにしかないけれど。たまに来る感謝の言葉や、「助かりました」のひと言が、全部を報われた気にさせる。だから明日もまた、車に乗る。空っぽの心でも、動かせる体があるうちは。
誰も見ていないけれど、今日もハンドルを握る
誰に見られるでもない、誰に評価されるでもない日々。それでも、自分の中では必死に戦っている。誰かが気づかなくても、自分は知っている。この毎日は、決して当たり前ではない。だからこそ、手を抜かずに続けている。それだけが、心をつなぎとめる理由になっている。
空っぽであることに意味を持たせるために
虚無のままでも進む。それは、悪いことではないのかもしれない。何も感じない日々を「ダメだ」と思いすぎると、余計に苦しくなる。空っぽな自分でも、今日という一日をちゃんと回している。それだけで十分だと、自分に言い聞かせるようになった。感情が戻ってくる日まで、静かに待とうと思う。