なぜメール文面がビジネスすぎると感じるのか
日々のやり取りの中で、ふと自分が書いたメールを見返して「なんでこんなに堅いんだろう」と思うことがある。司法書士という職業柄、失礼のない文面を心がけるのは当然のこと。しかし、気をつけすぎて相手との距離が縮まらない感覚に陥る。まるで書類を送るように人とやり取りをしているような虚しさ。あいさつ文の定型、結びの言葉の形式化。どこかで人としての温度が抜け落ちてしまっているような気がしてならないのだ。
事務所の日常で交わされる「堅さ」
僕の事務所では、事務員と交わすメールやチャットも基本は「〜していただけますでしょうか」「よろしくお願いいたします」といった言い回しが多い。事務員はまだ若いが、ビジネスマナーに忠実に育てた結果、雑談ひとつメールでしづらくなった。「急ぎではないのですが、もしよろしければ…」なんて前置きを毎回つけるから、かえって仕事が遅れることもある。まるで社外向けに書いているかのような文章を、毎日同じ建物内で働く相手に送る。なんとも不思議な距離感だ。
定型文が招く距離感の広がり
「お世話になっております」や「何卒よろしくお願いいたします」といった定型文は、一見丁寧で無難に思えるが、それがかえって相手との壁をつくってしまうことがある。とくに同業の司法書士間でのやり取りなど、もっとフランクにやればいいのにと思う場面でも、どうしても「正しい日本語」を意識してしまい、心が乗っていない文章になってしまう。メールを打つ手も重くなるし、返信を受け取る側としても、どこか堅苦しく読んでしまう。
「お世話になっております」は本当に必要か
1日に何十通もメールを書く身としては、正直「お世話になっております」を書く手が疲れる。中には、返信をもらったときに「あ、またこのフレーズか…」と感じることもあるくらい。もはや儀式的に書いているけど、本当にそれが相手にとって好意的に働いているかは疑問だ。先日、知り合いの行政書士が「一度もお世話してないのに、毎回『お世話になっております』って書くの笑えるよね」と冗談めかして言っていた。言われてみればその通りだと思った。
自分で自分を追い詰めているメール文化
形式的な文面を守ることにとらわれすぎると、本来伝えたい中身が薄まってしまう。たとえば、ちょっとした相談をしたいだけのときでも「いつもお世話になっております。早速ですが…」と前置きしてから本文に入る。要点が後回しになることで、読み手も無駄にスクロールさせられるし、書いているこちらも変なストレスを感じるようになる。もっと素直に「ちょっと聞きたいことがあります」くらいでいいのに、という自分の気持ちを抑え込んでしまっているのだ。
無意識にかけている言葉のプレッシャー
「ご確認のほどよろしくお願いいたします」などの言葉は、丁寧である一方で、どこか命令にも近い響きを持つ。言い回しを間違えないように神経をすり減らし、相手に失礼のないよう気を使いすぎてしまう。それが逆に自分の首を絞めている。以前、あるお客さんから「もっと普通の言い方でいいのに」と言われたことがある。丁寧すぎる言葉は、受け取り手によっては冷たく感じることもあるのだと、そのときはっとさせられた。
相手に合わせるあまり「自分」が消える
メール文面で丁寧さを優先しすぎると、自分の言いたいことや感情がどんどん希薄になっていく。特に司法書士のような士業では、言葉選びが慎重になりがちだ。それが結果的に「人としての自分」を見えなくしてしまう。やり取りを続けていても、お互いに顔が浮かばないような関係になってしまうのは、少し寂しいことだと感じている。
丁寧さと自己喪失の境界線
丁寧であることと、自分らしさを失うことは、本来別の話のはずだ。だが、僕自身、文面に迷ったときはとりあえずマナー本的な表現でごまかしてしまうことがある。そこにあるのは、自分の言葉が「間違っているのではないか」という不安だ。相手にどう思われるかを気にしすぎて、本当の自分の言葉を飲み込んでしまう。結果として、誰でも書ける無難な文章になる。そんなメールが積み重なると、やり取りそのものが機械的になり、仕事がつまらなく感じてしまう。
失礼のない文面が無個性を生む
何通かのメールを見比べて、「あれ、これ全部自分が書いたやつ?」と混乱したことがある。言い回しも、挨拶文も、締めの言葉もほぼ一緒。これはさすがにまずいと思った。相手ごとに伝え方を変えるべきなのに、全員に同じフォーマットで送っていたことに気づいたのだ。文章には人柄がにじみ出る。逆にいえば、無個性なメールは、相手にこちらの人間性を伝えるチャンスを失っているということでもある。
誰が書いても同じメールに見える恐怖
「自分じゃなくてもできる仕事」って、たまに不安になる。この感覚は、まさにメール文面にも現れてくる。ある日、事務員が代筆したメールと、自分が書いたメールを読み比べてみたが、ほとんど違いが分からなかった。これにはさすがにショックを受けた。正確さやマナーは大事だ。でもそれ以上に、僕という人間がそのメールに滲んでいないことが一番の問題だと思った。
地方の司法書士にとっての「距離感」の難しさ
都会と違って、地方では依頼人との距離が物理的にも心理的にも近い。それでもメールになると、急にかしこまってしまう。顔を知っている相手だからこそ、もう少し柔らかく書いてもいいはずなのに、癖のようにビジネスライクな文面になってしまう。これは職業病なのかもしれないが、もしかすると「なめられてはいけない」という防衛本能のようなものも働いているのかもしれない。
顔の見える関係でも言葉が硬くなる理由
郵便局のおばちゃんや、近所の不動産屋さんなど、普段は雑談も交わすような相手に対しても、メールになると急にかしこまってしまう。「いつも大変お世話になっております」なんて書くたびに、なんかおかしいなと自分でも思う。でも、メールは記録に残るし、万が一のときのためにちゃんとした文面にしておかないと…と、つい言葉を固めてしまう。これも、地方の人間関係特有の“二重の顔”かもしれない。
ちょっとした崩しが心を近づける
メールが「文書」ではなく「会話」になったとき、相手との距離は一気に縮まる。それはほんの一言、文末に「お身体ご自愛ください」とか、「暑いですね」でもいい。そうしたちょっとした崩しが、人と人とのやり取りの温度を上げてくれる。忙しい日々の中でも、ほんの少しの余白があるだけで、仕事がやさしく感じられるのだ。
文末の一言が救いになる瞬間
以前、あるお客さんからのメールに「お互い頑張りましょうね!」と添えられていたことがあった。その一文だけで、すごく元気が出た。自分もそんなメールを書けていただろうか?と振り返ると、やはりテンプレ的な文章ばかりだった。メールはただの連絡手段だけど、同時に気持ちのやり取りでもある。業務報告にちょっとした人間味を添えるだけで、信頼感や安心感はぐっと増す。
「よろしくお願いします」じゃなくてもいい
結びの言葉を「よろしくお願いします」で終わらせることが習慣になっているが、そればかりでは味気ない。たとえば「いつもありがとうございます!」や「引き続きどうぞよろしくです!」のように、少し砕けた表現でも、相手との関係性ができていれば悪くない。むしろ、相手が安心して心を開けるような文章になることもある。きちんとした中に少しだけ“ほっとする要素”を入れてみる。それが理想のバランスかもしれない。
結局、気持ちを伝える文面とは
メールの目的は、ただ正確に用件を伝えることではない。そこに気持ちがあるかどうかが、大きな違いを生む。形式を守るだけでなく、相手の顔を思い浮かべながら、自分の言葉で書く。それが相手の心に残るメールになる。少しの勇気で言葉を崩すだけで、自分も相手も楽になる。形式にとらわれすぎず、もっと自分の声を文面に乗せていきたいと思う今日この頃である。
丁寧さと人間らしさのバランス
これからもビジネスメールは書き続けるだろう。でも、その中で少しずつ、自分らしい文体を取り戻していきたい。「お世話になっております」でも、「いつもありがとう」でも、どちらでもいい。大事なのは、心をこめること。司法書士として、正確さや信頼はもちろん大切だが、人としての温度も忘れたくない。文章の奥にいる「人」を意識する。それが、結局一番の信頼につながるのだと思う。